空は水平線の先まで晴れ渡り、波も風もほとんどない。穏やかな航海が続く中、時々トンテンカンと音が鳴る。
ウソップはサニー号の甲板にて物作りをしていた。暇つぶし半分の趣味である。特にこれと言って作りたいものが決まっているわけでもなく、自由気ままにいろんなものを組み立てて試すその姿は子供のようである。ナミの扱う魔法のような道具も、こうして色々試して遊ぶ中での閃きにより発明されているのだ。
そんな彼の後方には、ワズワズの実の能力者が海楼石の鎖でぐるぐる巻きにされたままマストの根本で転がされていた。
椅子代わりにもなる台が備わるマストの根本、その台の上には剥き出しにされた心臓が晒されている。もう人質の価値がなくなったものだが、わざわざ戻してやろうと思う者も居らずそのまま放置されているのだ。
自分の心臓が外に放ったらかしにされている事実に気が気でなく、能力者は半泣きになりながら心臓の近くで不貞寝している。海楼石の鎖で腕ごと胸までぐるぐる巻き状態である故に、自分で戻すことも叶わない。それでもサンジの信条により三食の飯が必ず届くのだから、男の行いを思えば待遇は随分と良い方だろう。
そんな彼のことは空気に近い扱いで、お構いなしにトンテンカンと音は続く。捕虜のようなものを甲板に置くのは慣れたものだ。
サニーの頭の上ではルフィが寝転がり、日向ぼっこを楽しんでいる。そのすぐ手前の操舵輪の前には、ブルックに代わり舵を任されているフランキーの姿がある。この穏やかな空と海の前では、操舵手というより船長が海に落ちないか見守るライフガードだ。船長と同じように空と海と、そしてルフィを見守っている。
トンテンカン、トントン。そんなリズミカルな音と波の音だけが響く穏やかな甲板に、ギィ、というドアの開く音が混じる。
近くにいたウソップが反応し振り向く。開いていたのはダイニングへの扉。そして現れたのはナミだった。
「ナミ、お前もういいのか」
堂々とダイニングを通って出てきたということは出歩く許可がでたということか。ウソップが小首を傾げて声をかけるが、ナミからの反応はなかった。
ウソップは訝しげにナミを注視する。そしてぎょっと目を見開き、尻だけでわずかに後退りした。フランキーも振り返るが、あの距離ではウソップが後ずさる理由はわからないだろう。
ナミは静かに佇んでいた。その表情は、無。しかし目の上に影が落ちていて怖い。めちゃくちゃ機嫌が悪そうである。触らぬ神に祟りなしとばかりに、ウソップはかけようと思っていた言葉を唾と同時に飲み込んだ。
ナミは何かを探すように視線を移動させる。すぐに目当てのものを見つけたらしく、彼女はその一点だけを見つめ、足早に真っ直ぐそれへと向かい始めた。
その視線が自分に向かっていないことにウソップはほっとする。それでも、冷気を纏っているようにさえ見えるナミが心底怖く、彼女が横を通り過ぎていくのを体を縮こめながら見ていた。
やがてナミの足が止まる。彼女の足下には海楼石でぐるぐる巻きにされて眠る男。しかしナミの視線はそちらになく、真っ直ぐ見つめるのはその上にあるむき出しになった心臓だった。彼女はそれを躊躇なく鷲づかみにし、そして思いっきり――
「ふんっ!!」
ベチィイイインッ!!
「ぐぇええええええええええぇええ!!」
床に叩きつけた。
フランキーから小さく「わぁお」という声が上がる。寝転んでいた能力者が釣り上げられた魚のようにのた打ち回る。それを冷たい目で見つめ、ナミは一つ深い息を吐いた。
「ナ……ナミ……さん……?」
ウソップは自らの肩を抱きながら恐る恐る声をかける。一体何事だろうか。確かに彼女はあの男によって手酷い目に合ったわけだが、今彼女が抱く怒りの原因はそれとは別にあるように思えた。
ナミは基本、怒りをさっさと表に出すタイプだ。いつだって大声で言いたいことをいいながらルフィ達を殴っている。こんな風に冷たく深い怒りを内に秘めることはそうない。
ナミは未だ目の上に影を落とし、冷たい視線をのたうつ男へと落としながらウソップに応えた。
「大丈夫よ……ちょっと、めちゃくちゃ腹が立っただけ」
でしょうね。と心の内で相槌しつつ、その理由はきっと聞いてはいけないものなのだろうと察し、ウソップは上擦った声で答える。
「お、おう……でもお前まだ本調子なわけじゃねェんだからよ、おとなしくしとけよ……?」
「……うん、ありがと」
ナミは罪深い男を最後にもうひと睨みする。この男は、決して暴いてはいけなかった傷を暴いたのだ。
涙をこぼして芝生に顔を擦り付ける男を暫く睨み、ナミはふぅ、と息を吐き空を見上げた。男の叫び声が轟いても、空は変わらず穏やかだ。
ナミはウソップのすぐ近くの柵まで歩くと、そこに肘をついて空を眺める。
こちらの気も知らず、こうも穏やかな空と海を能天気に広げられれば、怒っているのも疲れてくる。広大な自然はナミのやり場のない想いを軽くしてくれた。
ナミの体から漂う冷気が消えていくのを見て、ウソップは小さく息を吐く。それと同時に、再びダイニングの扉が開かれた。
「ナミさん」
ローはぼんやりと目を開けた。まだ視界が滲んでいる。あれから何時間経っただろうか。滲んで歪む部屋の風景は記憶にあるものより随分と薄暗くなっているように感じた。
じわじわとクリアになっていく視界。ふと、すぐ近くに何かがあることに気づいてローは顔を向ける。そして彼はギョッと目を丸めた。
「おぉ! トラ男起きた!」
そこにあったのは麦わら帽子と生首だった。真っ黒な目が、今の今までじっとこちらに向けられていたのだ。興味深いものを観察する子供の目のようだった。その目を持つ首が、ベッドのシーツの上にちょこんと顔と両手の指だけ乗せていたのだから、ちょっとしたホラーだった。
「チョッパー! トラ男起きた!」
生首はぱぁっと笑顔を咲かせると、後ろを振り向いて叫ぶ。そうするとやっと肩と首が見えた。どうも床に座り込んで顔だけ出していたらしい。
いつからあの体勢でいたのだろうか。ずっと寝ているところを見続けられていたのだろうか。それも、今まで眠りを妨げられなかったことから、この男に似つかわしくなく、黙って静かに見ていたのだろう。
普段から突拍子のないことをする変な男ではあるが、またひとつ不思議な習性を発見した気がする。ローは困惑混じりに、ルフィに向けられていたのと同じ視線を返していた。
やがてルフィが顔を向けている方。閉められていたカーテンが揺れ、大きく開かれた。そこからチョッパーが入ってくる。
落ち着いた様子でてこてこと歩み寄る姿がなんだか珍しいとローは感じた。そういえば、ここ最近は出会う度に慌てられていたな、とぼんやり考える。
「トラ男、よく眠れたみたいだな。水、飲めるか?」
ルフィの隣まで歩み寄りながらチョッパーが言う。その手には吸い飲みがあった。
ローは無言で上体を起こそうとする。いい加減、水くらい自分で飲みたかったのだ。しかし、
「あ。ダメだぞ!」
ルフィに肩を掴まれ、即座にシーツに押し戻される。起こしかけた頭が枕の上で小さくバウンドし、ローは目を回した。くらくらする視界の端で、チョッパーが「バカヤロー!」とルフィをポカポカ殴っている。
「乱暴にすんなよ! トラ男が死んじゃうだろ!」
「うわぁ! ごめん! トラ男死ぬな!」
ルフィは目をまん丸にして仰天し、あわあわとローの身体に触れようとしては触らない方がいいのかと手を引っ込め、でも死なないよな、と確認したい欲からまた手を伸ばしかけて、を繰り返す。
文句の一つも言ってやろうかという気持ちも、こういうところを見せられるとついつい喉から出ることなく引っ込んでしまう。
「……これくらいで死なねェよ」
呆れと諦めによってやや下がる瞼により、ローの目は半目になっていて恨めしそうである。しかし、口から出る言葉はルフィを安心させる為の優しいものだった。どうしようもない奴だと思ってはいるが、ルフィがローのことを本気で心配していることは十分に伝わっているのだ。
「あーよかったァ! もーお前、いま体弱ってんだから急に動くなよ! チョッパーとナミが言ってたぞ! 安静にしてないとダメだから起こしちゃいけねェって」
それは騒がしくして目を覚まさせるなという意味であって、体を起こすことを断固阻止せよという意味じゃねェだろ。というツッコミが即座に脳裏に駆ける。しかし、それを説明する労力をも即座に計算した出来の良い頭は、結局面倒くさいからもういいや、という結論を出し、黙ってルフィの言葉を受け入れた。
叱りつけるような厳しい表情を浮かべて見せていたルフィは、ローが素直に話を聞いているのに満足したのか、すぐさまニッと笑顔を見せる。
「それにな、トラ男が起きなくてもこのベッド、ちゃんと起きれるようになってんだってよ! フランキーが言ってたんだ。それ使うからよ、ちょっと待ってろ!」
ローには全く理解できない謎の説明をすると、ルフィはすぐに座り込み、ベッドの側面を探り始めた。「えーっと、これだよな!」と口に出し、ローの視界の外で何かを動かしたようだ。
すると、丁度ローの腰より上、頭から背中にかけてベッドがゆっくりと斜めに上がり始める。ウィーンという機械音を立てて動くベッドに、ルフィとチョッパーが「すげェー! 変形だ! 変形だー!」と目を輝かせている。さてはお前、これが見たいが為にずっと起きるのを待っていたのか。と、自動で上体を起こされながらローは天井を見つめた。ベッドはもはや大きな座椅子のようになり、緩やかな傾斜で止まる。楽な姿勢で、かつ水を飲むには十分な角度まで起き上がってくれた。これ、すげェ欲しい。とローは思った。
チョッパーが再び吸飲みを近づけてくるのをローは手で止め、チョッパーのデスクの上に置かれているピッチャーとコップへ目を向ける。それだけでチョッパーは察した。すぐにピッチャーから水をコップに注ぎ、ローに差し出す。
まだ気怠そうではあるが、ローはしっかりとコップを受け取り、口に当てて傾ける。コクコクと小さく音を立てて喉が動き、三割ほどを飲んでから、ふぅ、と息を吐いた。
ふと、ローはルフィとは反対側へと目を向ける。そこには鞘に収まっている鬼哭があった。
「あぁ、それ、もういいって言ってたから、しまっといたぞ」
「……?」
ルフィは続けて、「めっちゃ長いから大変だった。お前よくあんなの使うなー」と言う。ローには意味がわからなかったが、鬼哭が静かに佇んでいるのを見て、まぁ、問題ないだろうと決め込む。それよりも他に確認したいことが沢山あるのだ。
「あれから何時間経った?」
「ん? んーーー」
ルフィが首を傾げて唸るが、ローの質問はチョッパーに向けてのものだ。チョッパーは時計を確認して言う。
「十時間くらい、かな?」
ひく、とローの眉が引きつった。
「…………それは、いつからだ?」
「トラ男を医務室に連れてきてからだよ」
ローは思わず額に手を当てた。爆睡もいいところだ。本来であればとうに敵地に乗り込み作戦を終えた頃だろう。
「悪かった、麦わら屋。作戦は今どうなっている?」
「重病人がんなこと気にしてんじゃねえよ」
答えたのはルフィではなく、ちょうど扉を開けて入ってきたサンジだった。呆れた目をローに向けながら後ろ手にドアを閉めている。
ローは口答えをしようとしたが、その前に重ねてチョッパーとルフィがそうだそうだと声を上げた。
「そうだぞ。トラ男は起きちゃダメなんだぞ」
「今は治すことだけ考えないと何だからな!」
「そうも言ってられねェだろ」
ローは小さくため息を吐きながら言う。
「あいつらのことだから問題なく潜入し続けているとは思うが、ペンギン達と連絡を取らないといけねェ。電伝虫を貸してくれ」
「ああ、それなら」
サンジは背後のドアへと視線をやる。するとドタバタと何やら慌てて走り寄ってくるような音が複数聞こえてきた。サンジはふっと笑みを零すと無言でドアを開ける。
「船長!!」
「…………は?」
ローは目を丸くした。
開けられたドアから押し除け合うように飛び込んできたのは、ペンギン、シャチ、ベポの三名だった。
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