大きな四角い穴の真ん中に、太いパイプのような大きさの線が下りている。麦わらの一味が向かっただろう廊下の突き当りに、その光景があった。周囲にもう従業員らしき人間はいない。
ローは穴の傍にしゃがみ、中を覗き込んだ。
随分と高さのある穴のようだ。下からは光が見える。また別の部屋があるらしい。鉄の四角い板が見え、穴の真ん中に伸びる線は、その板についていた。
下の部屋には人がいる。気配でそれを感じ取り、ローはこの穴を降りてみることにした。中央の線を掴めば楽そうだが、下にいる人物が線の揺れを見て不審がっては面倒だ。周囲の壁にはいくつか人が立つのに十分な足場がある。恐らくメンテナンス用に残されているのだろう。
ローは時に能力を使いつつ、穴を降りて行った。下の部屋が近づくにつれ、人の気配を濃く感じるようになり、話し声も聞こえてくる。
ローは下の部屋の天井に近い場所まで降りると、そこで気配を殺しながら下の様子を伺った。あのDの名を持つ男の声が聞こえてくる。そしてクロコダイルらしき男の声も。
(……捕らえられているのか)
すぐ下にある鉄の板は、どうも小さな檻の天井らしい。檻ごとこの地下の部屋へ落とす仕組みだったようだ。
麦わらの一味を檻の中に閉じ込めたクロコダイルは余裕綽々で会話に興じている。
天井一つ挟んだ向こう側で、今この国の裏で起こっていた全てが首謀者より明らかにされていた。
ユートピア作戦。反乱軍と国王軍を戦わせる為に、マネマネの実を使って国王に成りすまし、反乱軍を煽る。その際に武器商船を町に落とすことで反乱軍に武器を与える。アラバスタを破滅させるためだけの、あまりに惨い作戦であった。
「何故おれがここまでしてこの国を手に入れたいか分かるか」
聞こえてくるクロコダイルの言葉に、ローは表情を硬くする。
この国を手に入れるために四年もかけたという男。一体この国にどのような価値があるというのか。
砂漠だらけのとても豊かとは言えない国だ。クロコダイルの持つ悪魔の実の力を思えば相性のいい国なのかもしれないが、たったそれだけの為とは思えない。その思惑までも全て吐露してくれるのかと、ローは次に続く言葉に耳を澄ませる。
だが、その答えを聞くことは叶わなかった。この国の王女が怒りを露わに会話を拒否したからだ。無理もないだろう。
(……さて、どうしたもんか)
ローは下の状況に顔を顰める。
クロコダイルはこの空間を沈めると宣言した。麦わらの一味のいる牢屋の鍵をワニに食わせ、部屋を出たようだ。今は王女が一人、鍵を求めて巨大なワニと交戦中。海水が部屋に流れ込む音がゴウゴウと響いている。
このままだと麦わらの一味はここで溺死する。何故王女側についているのか、その真意や白ひげ海賊団との繋がりはわからないが、クロコダイルの敵対組織であるのは間違いない。ローとしては、彼らにこのまま死なれるのは惜しい。クロコダイルは恐らくジョーカーと繋がっている。いずれジョーカーとも対立するやもしれぬ組織だ。敵の敵は味方。ローにとって残したい勢力だ。
しかし、ローの能力を使えば彼らを助け出すのは簡単だが、それはローにとって弱みを曝け出すのと同じだ。そして何より、何故か一緒に牢屋入りしている、あの銀髪の海兵が邪魔なことこの上なかった。
(ったく、あいつ、なんでこんなところに仲良く一緒にとっつかまってるんだ)
苦虫を噛み潰したような顔でローは胸中悪態を吐いた。
ナノハナで出会った、あのいけ好かない海兵……白猟のスモーカー。あれからまだ日も置かぬうちに顔を合わせるのは避けたかった。それでなくとも疑われていたというのに、こんな場所でまた顔を合わせてしまえば今度こそ逃してもらえぬだろう。
さて、どうしたものか。水も随分入り込んできた。姿を見せず能力だけ使って檻から出してやれば、あとは自分たちで何とかするだろうか。
「あぁぁぁあああ~~! 水が~~~~っ!!」
「死ぬーーーっ!! 死ぬーーーっ!! ぎゃーーーー!!」
麦わらの一味の騒ぐ声が一段と大きくなる。増え行く水に慌てているらしい。ローが左手を持ち上げたとき、静かだったあの海兵の声が聞こえてきた。
「お前らどこまで知ってるんだ。クロコダイルは一体何を狙ってる……!! クロコダイルの傍らにいた女は、世界政府が二十年追い続けている賞金首だ。あの二人が手を組んだ時点で、こいつはもうただの国盗りじゃねェ。放っときゃ世界中を巻き込む大事件にさえ発展しかねねェ」
重要な情報にローの手が止まる。
クロコダイルの狙いも、そしてそれを阻止しようとする麦わらの一味の狙いも、知っておきたい情報だった。
だが――
「何言ってんだお前ら」
地を這うような、怒気を孕んだ声。その感情を隠しもせず、麦わらのルフィは叫んだ。
「あいつをぶっ飛ばすのに、そんな理由要らねェよ!!」
そのバカみたいに真っ直ぐな感情は、スモーカーの質問を濁すためのものとは到底思えなかった。本当に、ただただ愚直に、素直に出た言葉にしか聞こえなかった。
これまでのクロコダイルとの会話の間にも、麦わらの一味はただこの感情のままにクロコダイルと敵対しているように見えた。このアラバスタ王国を貶めようとする男に対し、怒りをぶつけているだけ。まるでこの国に住む人間のように。
なんでそんなお人よしが海賊なんてやっているのか、ローにはさっぱりわからなかった。だが、この一味にそれ以上の裏があるようには思えなかった。
ちぐはぐした不思議な生き物を見物している間に、巨大なワニが一匹吹き飛ばされた。どうも彼らの仲間が現れたらしい。
瞬く間に巨大なワニを倒し、ひと悶着のあと無事牢屋の開錠に至ったようだ。大暴れが過ぎた結果、部屋が崩壊し流されてしまったようだが……泳げる仲間が助けたようだし何とかしているだろう。
ローは崩れ行くその場を後にした。
カジノの部屋へ戻れば、そこは騒然としていた。
このカジノは湖の真ん中に建てられている。その街と建物を唯一繋ぐ橋が壊されていたのだ。出ること叶わず入り口で立ち往生する者が大勢いた。
また、騒ぎはそれだけでないようだった。至る所でざわざわと話し声が聞こえる。内容は遠い町で起こった出来事についてのものだった。この橋の破壊もそれに関わることではないかと、国民は不安に怯えている。
戦争を前にした独特の町の空気。覚えのあるそれに、ローの表情が険しくなる。クロコダイルが自慢げに話していたユートピア作戦は、決行されたようだ。
湖には小さな船が三隻ほど浮かべられ、カジノに孤立した人を救出に来ていた。ローはその一隻に世話になり、カジノから脱出する。湖の向こう側で目立つ真っ白な相棒がこちらに手を振っていた。
「ドクター! よかった! すごい騒ぎだよ。海賊が暴れてたみたいで、海兵も走り回ってる。それに、どこかの街で大変なことになってるんだって」
「あぁ。聞いた」
ようやくローと合流が叶ったベポは矢継ぎ早に激変した状況を伝えてくる。ベポを宥めるように首元を撫でてやりながら、ローは辺りを見回した。
「……クロコダイルが出てこなかったか?」
「一度出てきたけど、またカジノに入っていったよ。ドクターとは入れ違いになったね」
「そうか」
ローは暫し考え込む。クロコダイルは麦わらの仲間に出し抜かれたと気づいて戻ったのだろう。英雄視されているクロコダイルにとって、全てを知る王女ビビの存在は潰しておきたいに違いない。王女ビビは反乱を止めると言っていた。ならば……。
「……アラバスタへ行く」
「えっ!? そこで戦争が起こりそうなのに!?」
「日中の砂漠越えになる。ベポ、お前はここに残れ」
「い、嫌だ!」
「今は時間がねェ。必ず迎えに来る。ベポ、ガイドがまだ街にいるかわかるか?」
有無を言わさぬローの言葉に、ベポは表情を曇らせた。伝えられた事情はあまりに少ない。それでも、ローの表情を見れば、ローがこの事柄にどれだけ重要性を感じているのかも、焦っているのかも感じることができる。昼の砂漠越えはローの足手まといになることも自覚している。
「……ドクターは、戦争を止めたいの?」
小さな声で、ベポは聞いた。それは、己の意思を引っ込める理由をせめて知りたくて出た質問だった。
ローはそれに応えるように、真っすぐベポを見て答えた。
「……そんな大層なことはできねェよ。ただ……世界を揺るがすような何かが、今からそこで起きる。おれはそれを、見なきゃならねェ」
ベポは小さく頷いた。感じ取っていたことは間違いでなく、これはローにとって大切なことなのだと、ベポは再認識した。だからベポは再びローを見つめて言う。
「……約束だからね。ドクターが帰ってこなかったら、おれ、ここで干からびて死んじゃうからね」
「……あぁ、約束だ」
恐ろしくも愛らしい嘆願に、ローは小さく笑みを零してから頷いた。ベポもそれを見て再度頷くと右に首を向ける。
「ガイドの人たち、あっちの方向にいると思うよ」
ベポがそう言ったとき、町の近くで突如砂嵐が吹き荒れた。
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