おまけ
これは作戦が決行される朝のこと。
ポーラータング号に戻ることのできたローは、この二日間で驚くほどの回復を見せた。
十三年前を知るペンギン、シャチ、ベポは随分と驚いたものだが、ローは「だから問題ねェって言っただろうが」と不遜な態度でベッドに横たわっていた。そんな可愛くない姿も、この二日間弱りに弱ってベッドに横たわっていた姿を見てきた身としては、元気になってよかったと愛らしく思えてしまうのだった。
目に見える範囲の痣がなくなったこの日、ローは唐突にクルーに召集をかけるようペンギンに言った。
ローのベッド周りに集まったクルー総勢は、この狭い状況にも文句ひとつ垂れず、病床の船長が何を語るのかと静かに立ち尽くす。
ベッドの背に枕を複数置いて上体を起こしているローは彼らを見渡してから口を開いた。
「お前らに、話しておきたいことがある」
クルー達は静かに次の言葉を待った。その表情に動揺はない。話の内容に何となく検討がついていた。
「その前に一つ聞かせろ。誰がどこまで知っている?」
ローが問う。何についてなのかは、言われずともわかる。
ペンギンが率先して口を開く。
「合流までの間に、船長が昔かかった病気の話はおれから全員にしました。珀鉛病だということも、珀鉛病がどんな病で……どういう扱いをされてきたのかも」
ローはゆるりとペンギンへ目を向ける。
「お前は、それを自分で調べたのか」
「はい」
ペンギンは端的に答えた。
ローは苦笑する。
彼は今まで一度も、クルー達に自身の過去を話したことがなかった。十三年前に必死に看病してくれたペンギン、シャチ、ベポの三名にすら、珀鉛病と古郷について話したことがなかったのだ。
当時、「医者を呼ぼう、病院へ行こう」と訴える三人に、一切の説明もなく黙れと声を荒げてばかりいた。放っておけ、余計なことはするな、絶対医者は連れて来るな、誰にもおれのことは言うなと、そう言い聞かせるばかりで、その説明すらしなかったのだ。ただ、自身が口にした悪魔の実の能力でしか治せないからと、それだけを告げて。
それでも、彼らはローを見捨てることなく、律儀にそれを守って看病し続けてくれた。とんでもないお人よしだと、今でもローは彼らが何故こんな自分を看病してくれたのか、理解に苦しむところがある。
病気が完治してから暫くして、ペンギンから一度、あの病気は一体なんだったのかと、聞かれたことがある。
ローは返す言葉に迷った。その真実の全てを淡々と告白できるだけの時間が、まだ経っていなかった。
言葉に詰まるローの表情を見て、ペンギンは語りたくない話なのだと察したようだった。ただ、再発するかどうかだけを聞いてきた。ただただ、ローの体を心配しているだけなのだと、そう伝えるように。
それ以来、彼が過去のあの病気について聞いてくることはなかった。シャチもベポも、何も聞いてくることはなかった。
しかし、ペンギンのことだ。出会った当時はまだ文字を読めなかったが、学を得てから一人で調べていったのだろうと、ローは薄々思っていた。
有名で、視覚的にもわかる特徴的な病気だ。北の海であれば気づく機会はいくらでもあっただろう。
それでも、今の今までずっと、彼からそれを問いただされたことはなかった。ローが話したくないのならと、ずっと自身の胸にしまっていてくれたのだ。
「……そうか」
気苦労をかけてしまったのだろうな、と思う。詮索するなと当時は思っていた。勝手なことを、とも。
今は、少し申し訳ない気持ちだ。そして、愛おしい。
愛されていたんだなと、しみじみ思うのだ。
勝手に調べて悪かったとも、ずっと黙っていて悪かったとも言わない。ただただ、皆が皆、今の状況を受け入れていた。こうして、自然と話せる日が来ることを待っていた。
そして、ローはゆっくりと口を開いた。自身の故郷と、それを襲った病と戦争の話を語るべくーー
「国境を越えて何とか逃げ出した先、ぶっ倒れているところを知らねェ子連れの家族に見つけられた。まだ肌の変色は服に隠れる部分でしか起きていなかったから、そいつらは何も知らずにおれを近くの病院へ連れて行った。その後何が起きたかはわかるだろう」
ローは十六年前のことを話した。彼らに話したいことがあったのだ。
彼は語る。悲惨な戦争と、そこから逃れ死体の山に隠れ、国から出たときの話を。
故郷を抜け出し、深い森で幼いローは倒れた。それを偶然見つけた小さな子供がいた。たまたま森に遊びに来ていた家族が、ローを見つけることになった。
あたたかな家族だった。数日前まで目の前にあった家族のあたたかさだった。それを前にして、ローは先ほどまでの地獄が悪い夢か何かなのかと錯覚した。酷く疲れていたのもあってか、彼らのなすがままについていった。久々に感じる、敵でも死体でもない人のあたたかさだった。
その家族は一人森の中で倒れていたローのことをひどく心配し、優しい声を何度もかけた。ローにとってひとときの幸福だった。連れて行かれた病院の先、その医者もまた同じだった。とても優しかった。
だが、珀鉛病だと知られたとき、それは一変した。
あの地獄の中で聞いた声が木霊した。感染者の除去を願う声。通報の声。防護服。銃を構える音。
悪夢はずっと続くのだと。国境を抜け、どこへ逃げても、生きることが許される場所はないのだと、彼は知らしめられた。
「逃げた先でたまたま見かけたのが、ドンキホーテファミリーだった。あいつらは珀鉛病が伝染しないことを知っていた」
町を駆け抜けとある倉庫に逃げ込んだ。そこには先の戦争のために用意されただろう武器が並んでいた。その中にあった手榴弾を首にかけたとき、その倉庫にローと同じように勝手に入り込んできたものがいた。ドンキホーテファミリーの、ドフラミンゴとグラディウスだった。
ローは隠れて彼らが通り過ぎるのを待った。二人の話し声が聞こえてくる。
グラディウスは珀鉛病患者が近辺に逃げ込んだらしいと案じていた。しかしドフラミンゴは堂々と歩みを進めながら断言したのだ。珀鉛病は伝染しないと。
「だから、ドンキホーテファミリーに入った」
ローが語る過去を、クルーたちは沈痛な面持ちで聞いていた。一つとて聞き逃さぬよう静かに耳を傾けていた。
「そこにコラさんがいたんだ。おれの恩人だ。おれを憐れんで、船から抜け出して北の海の病院という病院すべてに連れ回された。どれだけ無駄だっておれが言っても聞きやしねェし、どれだけ追い出されてもあの人は医者の方が頭がおかしいつって、その都度、病院の何かしらの機材を壊して出てきた」
ドンキホーテファミリーにいたことがあることも、コラソンという恩人がいるということも、ペンギンたちは今まで断片的な情報でしか知らされたことがなかった。どうしてローの過去とそれらが合わさったのか、ここでようやく全てが繋がった。
断片でしか知らされていなかった今までも、ローがコラソンという恩人をひどく大事に思っていたことは誰もが知ることであった。ほとんど過去を語らぬ彼だが、コラソンという恩人の話については時々語ることがあった。そんな時、彼がとても遠くを見て、ひどく悲しそうな、そして優しい目をすることは、誰もが知っていた。
「あの人は、あんなの医者じゃねェって言うが、おれは無理がある話だって今でも思っている。珀鉛病は確かに伝染病ではないが、もしそうだったなら、多くの患者を持つ病院の責任者として、妥当な判断だった」
「……」
「仕方のねェことは、いくらでもある。どうしようもねェ命ってもんは、いくらでも」
ローはどこか遠くを見て言う。きっとその視線の先にあるのは、手を伸ばしても届かなかった命の数々があるのだろう。
そしてそれは、彼と共に戦い続けたクルー達も見てきた景色であった。
いろんな闇の蔓延る北の海にて、どれだけ足掻いても助けられない命を沢山見てきた。
そして、いくつかそれらを見捨ててきた。
どれだけ盲目に助けたいと思っても、それが許されない場面というものがある。すべてに命をかけていては命がいくらあっても足りない。
ローがそれら全てに手を伸ばしていたのなら、今頃ハートの海賊団は既に壊滅していたことだろう。
「おれは、あの人に助けられた身でありながら、とてもあの人みたいにはなれねェって思う」
ローは自身を嘲笑するように言う
北の闇を牛耳り、一つの国に災厄をもたらす巨大な悪を打つ為にずっと潜伏してきたのなら、目先の病気の子供を見捨て、その任務を順守することを自分なら選ぶだろう。
「なりたくても、なれねェって思う」
目を伏せて、静かにローはそう言った。
なりたくてもなれない。
ハートの海賊団のクルーであれば誰もが知っている。自分たちの船長が、海賊である前に医者であることを。そして医者という存在が、人の命を助けたいと願うからこそ生まれるのだということも。
盲目的に人を助ける決断ができたなら、それが一番心が楽なのだ。でも、彼は思慮深い人であるから、盲目にはなれない。
「ま、船長は船長ですから」
シャチはそれを快活に笑い飛ばした。みんなもそれに呼応するように頷く。
「そうそう。そうじゃなかったら命がいくつあっても足りなかったし」
「麦わらのとこみたいに無茶しっぱなしだったら、ちょっと怖くてやってらんねェかも」
そんな彼の艦だからこそ、自分たちはここまで生きていられたのだと彼らは思う。
指示は的確。引き際を知り冷静で、時に残酷な判断も下せる。だからこそ信じられる人であった。そして、その判断を下すとき、一人苦しんでいることを知っているからこそ、誰もがローと共にいたいと、支えたいと思った。
「おれ、キャプテンが大好きだよ」
ベポはそう言ってローに顔を寄せる。それはクルー皆の代弁であった。ベポの言葉に、皆微笑んで頷く。
ローはベポの頭を撫でて迎え入れたのち、にやりと笑ってクルーたちを見やった。
「……うるせェ。そんなことわかってる」
ぎゃぁああと艦が揺れるほどのざわめきが起きた。
自分たちの思いを堂々と受け取って笑う我らが船長の姿があまりに尊かったのだ。
雄たけびとも言えるような割れんばかりの声が船内を揺らし、多くの者が自分の体を掻き抱いて感動に震えた。
「おい、うるせェ。言いたいのはそんなことじゃねェ」
「エェーーー!?」
にべなく言われ、歓声は一気にブーイングへと変わる。騒がしいクルーたちにローは苦笑を浮かべながら天を仰いだ。
「あの人が言っていたような、とんでもねェ医者がいたんだ」
ローが再び語りだし、一気に場が静まる。
ペンギンとシャチ、ベポにはその医者が誰なのかがわかった。
「伝染病だって思い込んでいながら……あのバカ、防護服すら着ずに看病してた。おれが過剰反応しちまったから、それを気にして、何食わぬ顔で防護服脱いでずっと隣にいやがった」
ローは心底呆れているが、あまりにも優しい目をしていた。
「チョッパーですね」
「……あぁ」
ペンギンが確認すれば、ローは穏やかな顔で頷く。
あれだけの過去を経験したローが、そのチョッパーの対応にどれだけ心が救われたか……想像に難くなかった。
思わず顔を綻ばせ、あの小さな医者への感謝をそっと胸に抱く中、ふとローが厳しい目線を皆に向ける。
「言っておくが、お前らがあれと同じことをしやがったらバラすぞ」
「エェーーー!! 理不尽!」
本気の目でローに睨まれ、彼らは思わず叫んだ。だが、意図は察することができた。ローとは長い付き合いである。彼がクルーたちにそれを求めていないことは理解できた。いつだってローは、そんなリスクを背負うことを断じる側だ。そうすることで、彼はクルーたちを守ってきた。
チョッパーの行動は心あたたかなものであるが、かといって全面的に褒められたものではない。勘違いするな、というローからの強い釘差しは、そのままクルーを案じてのものだ。
ローは、あのように生きる愚かしさを知っている。彼を生かしたいと思うなら、それが愚かであることを教え、リスクを伝え、保身に走らせるべきだ。少なくともクルーたちには絶対、あのような生き方は許さない。命がいくらあっても足りない。
だが、あの小さな医者には、あの純真な想いを持ったまま生き抜いてほしいと、どこかで願ってしまう自分がいた。
「おれは……あいつをどうしようもねェバカだと思うが……あのままに生きて欲しいと思う」
それは相反する複雑な気持ちであった。それでも、どうしてもあの日、倉庫部屋で目覚めたときの、あの感覚が手放せないのだ。
「だから、あいつに手を貸してやりたい」
矛盾していると思う。だが、それが素直なローの気持ちであった。
「ウチはウチだ。変わらずこのままで行く。だがもし、あの医者が死にそうになったなら……生かしに行きてェんだ」
ローはクルー達へと真っ直ぐ目を向ける。
「この我儘に、付き合え、お前ら」
不遜な口調。だが、クルーたちは顔を輝かせた。
これは、ハートの海賊団の船長としてクルーに命令しているのではない。トラファルガー・ローとして、彼は仲間を頼っているのだ。そんなこと、今までそうなかった。敬愛する船長の貴重なお願いを断るものなど、この場に誰もいなかった。
「アイアイ、キャプテン」
「当然ですよ。でかい借りができましたからね」
「うちのキャプテンを助けてもらったんだ。おれたちにできることならいくらでも!」
沸き立つクルーたちに、ローはふっと笑ってひとつだけいう。
「優先順位は誤るなよ」
「アイアイ。死なない程度に手を貸しますよ」
ペンギンの言葉に、ローは満足そうに笑った。
「ってことは、麦わら達とはこれからも同盟継続ってことですか?」
「……おれはトニー屋には手を貸すが……あいつらの御守りなんざ二度とやらねェ」
心底うんざりだと言わんばかりに顔の半分を青ざめさせてローは言う。その脳裏には散々今まで振り回されてきた経緯がぐるぐると回っていることだろう。
しかし……
(いや、それ無理だと思いますよ船長)
(絶対チョッパー経由でまた振り回されることになると思うっすよ船長)
愛しき船長の唯一の願いの前に、その厳しい現実にはそっと蓋をした。
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