呑気な声と顔。ゆったりとこちらへ近づく足取り。
すべてが和やかだというのに、何度も何度も世界全体が揺れる。
スタんさんの足が、ぴたりととまった。
キィィィンと、耳鳴りが響く。
眩暈がしそうなそれだったが、耳を塞ぐことができない。体を動かすことができない。
目の前のスタンさんの表情が強張る。
耳鳴りは無音へと変わった。
スタンさんが唇を動かす。ほんの僅かしか動かなかったその口から何を言ったのか見当もつかなかった。
その瞬間だった。
何と形容していいかわからない音が響いた。
無音だったかもしれない、バキンだったか、ガシャンだったか、ジャラジャラいってたのか。
世界が異常なほどに揺れた。視界がぶれて、ぶれて、スタンさんの姿すら見失うほどに
そこからはバグった映像のようだった。
海のように溢れて波打つ灰色の鎖に僅かに交る壊れた赤の鎖。
見失ったスタンさんが再び映る。笑顔と、差し出された手
そしてまた見失い、今度は水中。辛うじて水の中だとわかるぎりぎりの明るさ。水の底。
また、鎖。
「ぐぅ……」
頭が痛い。
ただ、何もかもが崩壊していくのを感じた。
闇が目の前に広がっていた。ただの闇じゃない。全て飲み込むような
怖い
嫌だ、嫌だ嫌だ。何だこれは、何だこれは!!!
消される感覚。何もかもを消される感覚。何もかもが
無かったことにされる感覚
必死に、必死にもがいた。
背中からドンッと押される感覚がした。その闇から押し出されるような、弾き出されるような。
思わず地面に倒れこんだ。
気づいたら、そこには地面がしっかりとあった。世界があった。光があった。
暑いわけじゃないのに背中にびっしょり嫌な汗をかいた。
それはもう、悪夢を見て起きた時のような感覚だった。
何キロも全力で走ってきたみたいに心臓がバクバク動いてやがる。
同時に上がった息もなかなか収まらない。
初めて感じる恐怖があった。何が何だかさっぱりわからないが、あれほどの恐怖に追い込まれたのは……あの騒乱以来か……あれよりもひどかったかもしれない。
あの時のように目に見えて恐ろしい光景が広がっていたわけでもないのに
先ほどまでの感覚を何とか振り払おうと頭を振った。
気力だけでなんとか立ち上がる。そう、だ、あれから一体、どうなった?
視界の端に黒い影が映る。
「……ジューダス」
名を呼んだが、答えない。気づいていないかのように、ただ前を向いている。
その視線をたどれば、門がなくなっていた。
ただ、その代わりに
灰色の鎖があふれかえるように埋め尽くされ、そこだけ世界が切り離されたかのように、門から先には何もなかった。
断崖絶壁、底の見えない奈落が広がっている。
「これは……」
何がどうして、こうなって、?
完全に状況についていけていない。スタンさんは?
振り返った先に、求めた姿はない。
「…………」
そこにはもうクレスタの町はなかった。
あのどことなくクレスタに似ているだけの、不可思議な世界。
あれだけ蔓延っていた赤の鎖が一かけらもなかった。
再びジューダスのほうへと視線を向ける。
そいつは、ただ無感情にこの世界を見ていた。
この現実を見つめていた。
「ロニ」
「な……んだ?」
「煩わせたな、すまない。だが、お前のおかげで目が覚めた」
そこにいたジューダスは、もう門を眺めていたときのような切望を持っていなかった。
それを捨ててしまった。諦めてしまった。叶うことのない願いとしてこの世界を受け入れてしまった。
門の先にはもう何もない。あいつがいた世界がない。
あいつを待ってくれると人がいるという町が、丸々消えてなくなった。
「お、れの………せい、なのか」
「違う」
途方のない罪を感じ、思わず声が震えたのを、芯の通った声で否定される。
「最初から決まっていたこと。これが本来あるべき世界の姿だ。僕も、お前も、門の奥に幻を見ていただけなんだ。……もう、存在しない町だ」
「……お前、故郷をなくしてたのか」
ジューダスの顔が皮肉気に歪んだ。歪められた表情の奥に、痛みが見え隠れする。
「まぁ、そんなところだな」
ドン、と突如後ろから閃光が上がる。
振り向けば、眩い光の柱がそこにあった。
「これは……」
パララなんちゃらシフトだっけか……。
1階層も2階層もふと気づいたら入ってたから、こうやってまじまじと見るのは初めてだった。
ザ、と何のためらいもなくジューダスはその柱へ向かって一歩踏み出す。
門があった絶壁に背を向けて。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
慌ててジューダスの腕を掴んだ。
ジューダスは視線だけで疑問を訴えてくる。
俺は、怖かった。
このままこいつの精神世界が進んでいくのが
先ほど見た、闇が怖かった。
こいつの精神世界が怖くなった。
何かにつれ、無かったことにされる世界。
何度も何度も、彼の精神世界のはずなのに、その住民たちの認識から消えるジューダスの存在。
「お前、あの町のことも、無かったことにするのか?」
そんな状況で、先に進めるわけなんかない。
ぐっ、とジューダスの腕を握る。
その力の強さにジューダスは腕に視線を一度向けたあと、俺の後ろへと視線を向けた。
合わない目線に吊られ後ろを振り向けば、灰色の鎖の隙間からわずかに何かが見えた。
空中に浮かぶそれは、島が空を飛んでいるような光景。
「……もしかして、あれが?」
「決して交わることはない。でも、消えはしない、あの町は。消せやしない」
「そ……うか……じゃあ、じゃあお前のこと待ってくれるって言ってた人は」
言いかけて、自分が完全に混乱していることに気付いた。
あれは幻なのだと、現実にすでに存在しない町なのだと、つい先ほどジューダスの口から聞かされていたというのに。
きっと、この世界でどのような形として残っていようが、おそらくジューダスは現実の世界でその人と別れてしまったのだ。
「……あそこに残っている。それだけで、僕は……それだけでいいんだ」
俯いてジューダスはそう呟いた。
そして俺の手を振り払い、光の柱へと溶けていった。
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