ハートが夢見る医者 3-5

OPハートが夢見る医者
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これでハートが夢見る医者3話は終わりです。次から4話に入りますが、その前に3話の全体推敲を今度していきますね_(:3 」∠ )_ 

3話は割とお話としては蛇足だったり被ってたりしてて美しくないなーって思ってるんですけど、やっぱ普段いろいろ押し隠してる推しの、その弱みを知って狼狽える周囲の図が大好きすぎて止められませんでしたね^ω^

体が、痛い。

ぎゅっと、手を握られる。

真っ白なシーツが見える。

ーー 体が、痛いよ

体が、痛い。

ーー お兄様

……。

ーー 父様は国一番の医者だ。きっと、治してくれる

真っ白な、シーツの上。ぎゅっと、握られた手……。

 

 

 

 

あれから二時間ほどが経っただろうか。医務室は呼吸音とペンを走らせる音や僅かな物音だけが聞こえる穏やかな空間になっていた。時々、甲板からルフィ達の騒ぎ声が聞こえてくる。すぐに静けさを取り戻すあたり、うっかりいつも通りにはしゃいではこちらを気にして声を抑えているようだ。そんな子供のような仲間たちの様子が手に取るようにわかり、ナミは小さく笑った。

隣のベッドから聞こえてくる呼吸は当初の荒かったものに比べると今は随分と落ち着いている。

ナミは暇つぶしに持ち込んだ海図から目を離し、隣へと視線をやる。カーテン越しであまりよくはわからないが、物音などから察するにチョッパーは少し前から机に向かっているようだった。それだけローの容態が落ち着いたということだろう。

ナミはベッドのサイドレールに取り付けられた机を避ける。海図を書きたいとウソップに強請り作ってもらったそれは、軽く押すだけで足元まで移動してくれる優れものだ。ナミはそのままベッドから降りると、カーテンを小さく開けた。

「チョッパー。トラ男、落ち着いてきた?」

予想に違わず、チョッパーは机に向かい幾つもの試験管やフラスコに囲まれて作業をしていた。治療法を探しているのだろう。

彼は作業を止めて振り向くと、一度ローへと視線を向け、安堵したように微笑んだ。

「うん。呼吸も安定してきた」

ナミもローへと目を向ける。薬がよく効いたのか、静かに眠っている。元から隈のせいで不健康そうな顔だったが、病に蝕まれている為か更にやつれて見えた。それでも、苦しげではあるが目を閉じて眠っている姿が妙にあどけなく見えた。こんな風に無防備に眠る彼の姿はそう見れない。いつもの鋭い眼光が瞼の下に隠されているだけで随分と印象が変わるなと、ナミは思った。

ちゃんと休めている姿を見てナミの顔に優しい微笑みが浮かぶ。彼女は「よかった」と小さく呟いた。それから、その視線をチョッパーへと戻す。チョッパーはローの様子を確認すると、またすぐに机へと向かってしまった。その顔には強い使命感が宿っているが、疲労が色濃く出始めている。

ナミは一歩、チョッパーへと歩み寄る。

「ねえ、チョッパーも一度休憩してきたら? 一眠りしてきなさいよ。全然休んでないんでしょ?」

ロビンから聞くに、昨夜は一睡もしていないらしい。サンジが運んできてくれる食事すら飲むように平らげ、休む間もなく研究に戻っている。

ナミが心配するのも当然だ。だが、再びナミに顔を向けたチョッパーは首を横に振る。

「……あまり目を離したくないんだ」

そう言って、チョッパーはまたローへ目を向けた。真っ黒な瞳には心配の色が濃く浮き出ている。しかし、気持ちは分かるが、ずっと休まずに付きっ切りなんて無理な話だ。

「あんたが先に倒れたんじゃ意味がないでしょ? 私、寝すぎちゃってしばらくは眠れそうにないから、トラ男の様子、ちゃんと見ておくわ」

「え、だめだよ! ちゃんと休んでろよ!」

「ベッドの上で大人しくしてるから大丈夫よ。様子がおかしくなったらちゃんと呼ぶ。それに、呼ばなくてもサンジ君はちょくちょく様子見に来てくれるし。ロビンも気にかけてくれるから」

チョッパーの医務室はダイニングとキッチンのすぐ隣にある。キッチンがテリトリーのサンジはすぐ様子を見に来ることができるのだ。ナミが助けを呼べば、文字通り飛んできてくれるだろう。

「ね?」

諭すように言って、ナミは任せなさいと言わんばかりにウインクをする。チョッパーはしばらく悩むように視線をローとナミの間で行ったり来たりさせていたが、やがて息を吐くと同時に微笑を浮かべた。その表情からは使命感と緊張感が僅かに緩み、気を抜いた分だけ押し隠してきた疲労がじわりと滲んでいた。

「うん、わかった。ありがとう、ナミ」

頼ってもらえたことに安堵の笑みを溢し、ナミは自身のベッドへと戻る。スリッパを脱いで上がり、再び机を手元に引き寄せている間に、チョッパーがカーテンからてこてこと出て来た。

「おれ、ダイニングで寝るよ。何かあったらすぐ起こしてくれ」

「わかったわ」

やはり眠いのだろう。片目をこすりながらチョッパーはそう言うと、ふらふらしながら扉を開け、音を立てないように閉じて行った。

ナミは一息を吐く。これで目先の気がかりは解決できた。ずっとチョッパーに声をかけるタイミングを伺っていた為に捗らなかった海図の作成も、これでもう少し集中できそうだ。

ナミは薄く開かれたままのカーテンからローの様子を見る。変わらず落ち着いて眠れているようだ。カーテンを開けたままにしたほうが良いか少し迷ったが、この安らかな眠りが少しでも長く続くようにと、ナミはカーテンを閉めた。

 

 

それから数十分後。早くもサンジは医務室に顔を見せた。右手にドリンクを持ってドアを開けたサンジに、ナミは声をかける。

「チョッパー、ちゃんと寝てる?」

「あぁ、そこのソファでぐっすりだ」

ナミが問えば、サンジは親指でドアの向こうを指差し、自分の体でドアを抑えながら退ける。そうすれば、向こうの部屋のソファに小さな毛布の塊が上下している様がみえた。

「ふふっ」

安心から笑みを溢すナミの前に、サンジはいつもの流れるような動作でドリンクを置いた。ドリンク一つでも芸術品のような美しさを出すサンジの料理にナミの目が輝く。それを満足げに眺めてから、サンジはカーテンを僅かに開け、その隙間からローの眠るベッドを覗き込んだ。

「大分落ち着いたみたいだな」

医務室に連れてきた当初と違い、静かに呼吸する姿を見てサンジもまた安堵の表情を浮かべる。

「うん。チョッパーの薬がよく効いたのね」

「さすがうちの船医だ」

カーテンを閉め、サンジはにっと笑った。ナミは目を細め、「えぇ、本当に」と答える。この会話がチョッパーに届けばいいのにと思いながら。

「それじゃ、ナミさん。誰かしら一人はダイニングにいるようにするから、何かあったら遠慮なく声をかけてくれ」

「うん。ありがとう」

様子見がてら、わざわざそれを言うためだけに来てくれたのだろう。サンジはすぐに踵を返し、ダイニングへと戻ろとする。

しかし、突如サンジはドアから一歩下がった。顔を顰める彼の前で、勝手にドアが開かれる。

「おい、てめェ、人の話聞いてたのかよ。病人が寝てるから医務室は通り抜け禁止だと言っただろうが」

声量を押し殺した低い声でサンジが言う。

医務室はダイニングと船の後方への外扉の間にある部屋だ。病人がいないときはよく通路として使われている。当然ながらサンジも言ったように病人がいれば通行禁止だ。

そんな中、堂々と医務室に現れたのは大太刀を抱えたゾロだった。常識的なルールを破られ、もとの犬猿の仲も相まってサンジはこめかみに青筋を立てている。

「わぁってるよ、うるせェな。ちょっと用があんだよ」

「あぁ? ……それローの刀か? ……って、おい!」

十字の模様が特徴の大太刀を見やるサンジを押しのけ、医務室へと入ったゾロはシャッと音を立ててカーテンを大きく開けた。長い苦痛を乗り越え、ようやく安らかな眠りを得られた同盟相手の姿を、ゾロは無言で見下ろす。

「ちょ、あんた何やって……!」

その暴挙にさすがのナミも声を荒げる。だがゾロはなんら気にせずローの眠るベッドに近づき、担いでいた大太刀を肩から下した。

倉庫部屋に置きざりにされていた、ローの刀だ。

「お前、それを届けに来たのか? いや、だったら帽子とコートも一緒にもってこいよ」

ゾロの突拍子のない行動にサンジの納得と突っ込みが忙しなく行われる。それを気にも留めず、ゾロはベッドの真正面まで行くと、普段使わないであろう長身の大太刀を何ら問題なくスルスルと抜いて見せた。

銀色の刀身が露になる。サンジとナミはそれに魅入られたかのように見つめた。

不思議な刀だった。その抜身の刀をローが扱う姿は何度も見てきたというのに、今はどこか違って見えるのだ。色も形も、何も変わりないはずなのに。

見ていてやりたい、目を離してはいけない。そんな不思議な感覚を抱く。

瞬き三回分静かに魅入ってしまったが、ふと刀身の背景に写るのが病室であることを再認識し、サンジは我を取り戻す。病室での抜刀という、その異常性に慌てて声を上げた。

「ちょ、おいてめぇ! 何してやがる!」

「うるせぇ、黙ってろ」

「おい!」

ゾロは大太刀を逆手に握りなおし、振りかぶる。一見すればベッドに眠るローに向かって突き立てんかのようだ。だが、ゾロの体の向きはベッドから少しずれていて、先ほどから殺気もない。

サンジやナミの困惑の眼差しを受けるままに、ゾロはその大太刀をローの眠るベッドと壁の僅かな隙間に突き刺した。

ナミからは、ローの横顔の奥に、大太刀の刀が真っ直ぐ立つ光景が見える。その刀身に、持ち主の影を僅かに映して。

ゾロが刀から手を放す。鍔鳴りが小さく響いた。

刀身の煌めきは抜かれた時と何ら変わらないというのに、何故かそれが纏う気配が変わったような気がした。不思議なその刀をまじまじと見つめてから、サンジはゾロを睨み付けた。

「おい。何なんだ、これ」

「妖刀だ。触るなよ」

サンジは眉を寄せる。ローの持つ大太刀が妖刀だなんてのは初耳だった。しかし、聞きたかったのはこの刀が何かじゃなく、何でここに突き刺したか、だ。そもそも、妖刀なんて危険そうな代物、持ち主とはいえ寝ている病人と、病み上がりのレディのいる部屋に突き刺してんじゃねえ。

そんなサンジの内なる言葉を悟ったのか、ゾロは肩を竦めて言う。

「そいつが、こうしろってビービー泣いてうるせぇんだ」

意味が分からない。

が、この男が何やら刀の意思を見聞色のように感じている節があることをサンジは知っていた。

「これ、大丈夫なんだな?」

最終確認として、サンジは突き立つ大太刀を指してゾロを睨む。ゾロは表情ひとつ変えず答えた。

「むしろこうしねェ方が危なっかしいからな」

サンジには理屈が欠片もわからない。しかし、わからないものはわかるものが対応すればいい。サンジは頭を掻いて妖刀から意識を離した。

用はそれだけだったのだろう。ゾロはダイニングへの扉へと向かい歩き始める。しかし、サンジとすれ違う時、ふと、その足は止まった。サンジが片眉をぴくりと跳ねさせて再びゾロを睨みあげた時、彼はローの方へと振り返っていた。

隻眼が、細められる。

「なんでトラ男、移動したんだ」

「あぁ?」

どこか責めるようなその言い草に、サンジの語気が荒くなる。

「アホかてめぇ。病人をいつまでも倉庫部屋に突っ込んでおく方がおかしいだろうが」

そんな当たり前のことを、何故難癖つけられなければならないのか。

しかし、その解答にゾロは舌打ちで返した。その態度の悪さと意味のわからなさに、サンジのこめかみに先ほどより多く青筋が浮く。

「アァ⁉︎ 喧嘩売りに来てんのかテメェ!」

喧嘩上等。即座に医務室から場所を変えて蹴り倒してやる。そう意気込むサンジだが、ゾロは気だるげにサンジから目を離した。向こうにその気はないらしい。余計、意味がわからない。

ゾロが何も言わずにドアを開く。サンジの怒りが困惑に上塗りされていく。そうして怒りは消えかかっていたというのに、ゾロは最後に振り向いた。

「おい、アホコック。あんまトラ男に構ってやんなよ」

「はぁ!?」

それだけ言って、ゾロは医務室から出て行った。バタンと閉じられたドアが、後に続けたかった言葉を全て遮ってしまう。

サンジは三秒ほど、そのドアの前で固まっていた。それはナミも同じだった。そして、彼女はぽつりと呟く。

「……なにあれ。意味わかんない」

ナミのその一言は、サンジの思いの全てを代弁していた。

そんな二人の傍ら。鬼哭はただ、その刀身に主を映し続けている。

 

 

 

それからしばらく後。医務室は再び静かな時間を取り戻していた。

新世界の海だというのに珍しく気候が荒れる様子もない。程よい日光が窓から降り注いでいる。ブルックとフランキーが上手く舵を取っているのか、はたまた運が良いのか。

ナミは先ほど人目を盗み、外に出て空の様子や風を確認した。ありがたいことにこの天候が荒れる兆しはない。海は驚くほどに凪いでいた。

ローの眠るベッドは再びカーテンによって隠されている。ゾロが突然置いて行った抜身の妖刀もカーテンの中だ。故にナミは妖刀の存在を不安に感じるどころかほとんど忘れていた。

そんな穏やかな時間を今は製図から読書に変えて過ごしていたナミは、ふと本から視線を離した。隣のベッドの住人が身じろぐ音がしたのだ。

ただの寝返りならば良いけど、と、二度、三度、しばらくの間を開けて聞こえてくる衣擦れの音を気にかけながら、あまり頭に入らなくなってきた本の文字を追う。しかし、そう時間を経ずにナミは本を置いた。荒い呼吸が聞こえ始めたからだ。

「トラ男?」

カーテン越しに、そっと声をかけてみる。再び衣摺れの音。そして、

「…………ミ……」

声が返った。

名を呼ばれた。そう、ナミは思った。

ナミはすぐにベッドから降り、カーテンを開ける。最後に見た時は真っ直ぐ仰向けに眠っていたローは、体をこちらに向けて横にし、布団の中で胎児のようにぎゅっと身を縮めているようだった。

「トラ男」

ナミはベッドに手を付き、身を屈めてローを覗き込む。

布団にほとんど埋まった顔は苦痛に歪んでおり、額には玉の汗が浮かんでいる。薬が切れたのか、はたまた、薬の効果を上回る痛みに襲われているのか。

「トラ男、辛いのね……待ってて、今……」

チョッパーを呼びに行こうと、ナミは踵を返す。その時、ベッドから離れかけたナミの手首が握られた。

「……トラ男?」

呼び止められたのか。そう思って振り返れば、熱に浮かされ虚ろになったローの目がこちらに向けられていた。

握られた手首が熱かった。その手に込められた力が、まるで縋り付いているかのように強く感じた。病のせいでまともに力が入らないだろう手に、必死に力を入れて、ナミの手首を握っていた。

わずかに開いたローの目はひどく切なげで、何かを訴えるようで。

初めて見るその表情に、ナミは狼狽えながら声をかける。

「トラ男……? どうしたの」

丁度そのとき、コンコンとノックの音が響いた。「ナミさん?」と声がかかる。気配に敏いサンジだ。何かを感知したのかもしれない。

「サンジ君」

ナミは一度ドアへ顔を向けたが、ナミの手首を必死に掴むローが気がかりで、すぐに視線を落とす。ナミの返事から一呼吸おいて、サンジはドアを開けた。

「ナミさ……ちょっ!?」

サンジは目を丸くする。

ベッドの中のローが、ベッドに手をつくナミの手首を握っている。医務室で、隔てていたカーテンが開かれた中、だ。それは、ローを部屋へ移動させる前のあの時、サンジが危惧していた妄想。それが現実となった光景だった。その衝撃映像に、つい反射的に嫉妬の怒りがサンジの目に宿りかける。

だが、それは次の瞬間に四散した。

「……ミ、……ラミ……ご、め……」

聞くものの胸を締め付けるような、か細い、嘆きだった。

虚ろな琥珀の目から、一筋、涙がゆっくり伝い、落ちる。ナミもサンジも、それが布へ吸い込まれていくまで、息を呑んで見ていることしかできなかった。

流れ落ちる涙を目で追っていたサンジは、それが布へと吸い込まれていくとき、ぶわっと違う風景が浮かぶのを見た。

白い清潔感のあるシーツ。先ほど見ていた光景と一致するが、ふと視野が広がったとき、そのベッドヘッドには愛らしい花柄の模様が描かれていることに気づく。そして、その風景に似つかわしい小さな女の子がベッドに横になり、こちらへと辛そうな目を向けていた。

その手を、ぎゅっと握る。

小さな手は弱く握り返してきた。その手の感触がどこまでも愛おしかった。そして、その力の弱さに胸が掻き毟られた。女の子は、辛そうに体をよじり、悲しそうな目をこちらに向けてくる。

サンジには聞こえた。先ほど口に出されなかった心の嘆きも、すべて聞こえてしまった。今、自分がその言葉を口にしたかのように、胸の奥に宿る苦しみと同時に、滲み出すように脳裏に刻まれていた。

―― ラミ、ごめん。辛いよな。痛いよな。おれだけが……ラミ……ごめん。

「……っ!」

ハッ、とサンジは我に返る。気づけば先ほどの場所から二歩、無意識に二人のもとへ近づいていた。呻き声に、サンジは動揺を隠せぬままにベッドを見やる。

体が酷く傷むのだろう。ローは体を捩り、苦しむ。

それが、先ほどの映像と、あの小さな女の子と重なる。

サンジにはわかった。ローが、その苦しみを妹も負ったものなのだと、そう認識していることに。朦朧とする意識の中、その痛みが、今繋がっている手……守るべき妹の痛みなのだと思い込み、必死にナミの手を握っているのだ。

随分と妹を可愛がっていたようだ。自身よりも病の症状は進んでいたようで、あの小さな女の子は今のローと同じぐらい体中が真っ白だった。

病の進行が記憶の妹に追いついたとき、同じ痛みを負ったとき、こうして妹の苦しみに思いを馳せていたというのだろうか。そう思いながら、自身を治療してきたのだろうか。

それは……。

サンジは小さく頭を振って思考を止める。

これ以上は、だめだ。

見聞色のコントロールを誤ったと思った。うっかり見てしまった余りに深い悲しみに、サンジは狼狽えていた。

どうすればいいのか、何も、わからなかった。今自分にできることなんて、何もない。あるわけがない。踏み入ってはいけない領域だったのだ。サンジは、ただただ瞳を震わせていることしかできなかった。

ーーその時。

すっと、ナミは両膝をついた。そして、ベッドに横たわるローと視線を近くし、ローの手に、もう片方の手をそっと重ねた。

その所作の全てが柔らかく、温かく。

力をまともに入れられない弱々しい手を取り、両手で祈るように握る。

そうして、ひどくやさしい声で告げた。

「いいのよ、いいの……大丈夫よ」

慈しみに満ちた声だった。

本当に、ローの見る幻影の女の子が答えているかのようだった。

サンジは驚いた。見聞色の覇気を彼女は持っていないはずだ。だというのに、あの声のすべてが聞こえたのではないかと思うほどに、その行動は今のローの想いに寄り添い、優しく包んでいた。

それは魔法のようにローの痛みを和らげたようだ。

痛みに縮こまっていたローの体は、次第に力が抜けていき、縋るように、必死にナミへと向けられていた琥珀の目は、また一つ、涙を零して閉じられていった。

完全に力の抜けたローの手を、ナミはゆっくりとベッドへ下ろす。それでもまだ、片手は温もりを分け与えるように添えたまま、ナミはもう片方の手でローの傍らに落ちていたタオルを取り、その涙の痕跡をそっと拭った。

先の光景を見てしまったサンジにとって、それは胸の苦しみにジワリと染みた。しかし、だからこそ次に来る感情は後悔だった。

あぁ、見てはいけないものを見てしまった。再度胸の内で呟き、自責と後悔に顔を歪める。

今更になって、ローが医務室への移動を渋った理由がわかった。防護服を着たチョッパーを見て暴れたことから、もっと察してやるべきだった。今朝、意識を取り戻しいつも通りに会話する姿を見て安心しすぎていた。その奥底に染み付く過去の傷の存在を、ちゃんと察していたというのに。

ラミという少女がローの妹であることも、少し甘えん坊で、兄であるローをとても慕っていたことも、ローが兄として妹を愛し、守らなければと幼いながら必死に行動をしたことも……そんな想いを全て挫かれ、失ってしまったのだということも、サンジには、あの一瞬で全て分かってしまった。

全てを奪われ、ただそこに生きていることすら許されず、迫害され、蔑まれ、銃を向けられる。それらに怯え、縮こまり、泣き叫んだその日は、どれだけ屈辱だったことか。

どれだけ歳月を経ようとも、決して癒えぬ傷だ。それでも、ローは一船の船長として、その傷に苛まれる姿を易々と他人に見せたくはなかったはずだ。一切何もできず、ただただ奪われ、血の海に膝をついていた姿など、決して見せたくなかったはずなのだ。

だから、サンジは二人に背を向けた。

「一応、チョッパーを呼んでくる」

「……うん」

ナミの返事にも振り向かず、静かにドアを閉める。

麗しのナミさんの両手を借りているのも、それに至った要因も、全て、見なかったことに。チョッパーを呼んだら、あとは、いつものポジションであるキッチンに戻って、次に作るスープでも考えよう。そうして、いつも通りに、戻ろう。そう、言い聞かせる。

拭い切れない罪悪感を胸にサンジがダイニングに戻ると、カウンターで勝手に酒を入れて飲んでいるゾロの姿が見えた。彼はサンジに一瞥だけ向け、再び酒を煽る。

「だからあんまり構ってやるなって言っただろうが」

「……うるせぇよ……」

返す言葉は弱々しいものとなった。

あの重病人をずっと放っておけなど到底無理な話だ。だがあの一時は、ゾロの言葉が正しかった。それが彼なりの優しさであったのだと知り、サンジは頭をがりがりと掻いてそれ以上の言葉を飲み込んだ。無言でゾロの後ろを通り過ぎ、チョッパーの眠るソファへと向かう。

可愛らしい毛布の膨らみは、今も規則正しく上下に動いていた。

そしてその隣に、ブルックが座っている。彼は少し前にサンジの手によって入れられた茶を大事そうに両手で持ち、二人のやりとりに視線を向けることもなく、その真っ黒な目を虚空へと向けていた。

サンジがチョッパーの元に辿り着いたとき、彼は骨だけの顎をゆっくり動かした。

「今、この船には何の曲がふさわしいのでしょうね」

ぽつりと落とされた質問に、サンジはブルックへと顔を向ける。彼の視線は変わらずどこへも向けられていない。

「北の海の鎮魂歌でしょうか。それとも、何ら関係ない、陽気な海賊の唄でしょうか」

彼の隣にはバイオリンとギターが置かれている。ブルックは一度それに視線を落とす。されど両手は湯飲みを離さず、再び視線を虚空へ戻した。

「人が求める曲はそれぞれです。ですが、曲自体はどれもとても良いものです。その人を想って奏でられたものであれば、なおさら」

チョッパーを起こそうと伸ばしたサンジの手は、思わず止まっていた。次の酒を煽ろうとしていたはずの手もまた、同じであった。

「早く、元気になって下さるといいですね」

静かにそれだけを願い、湯飲みと酒瓶が傾けられ、止まっていた手は毛布を優しく叩くのだった。

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