「あいつ、ドクターが前に見てた手配書のやつだったね。エース」
速足で酒場から離れ、ようやくローが歩みを緩めたのを見てベポが呟く。
ローは「あぁ」と小さく相槌を打って振り返った。同時に件の酒場があった方面からドンだのボフンだの変な音が鳴り、異質な雲が空へ上っていくのが見えた。雲というのか、煙というのか。妙な雲が何かを追うように街の空を架ける異様な光景。その方面から逃げるように町の人間がバタバタと走ってこっちへ向かってくる。
「能力者同士の戦いが始まってるらしい!」
「マジかよ、こんなところで!?」
「海賊と海兵の戦いだ!」
「あの煙、聞いたことあるぞ! 白猟だ! 白猟のスモーカー! 東の海にいたんじゃなかったのか……」
町の人間の声を聴き、ベポはぱちぱちと瞬きをしてローを見る。
「あの海兵も、能力者なんだ」
ローは空に舞う雲をじっと見ていた。険しい表情だ。彼の頭の中できっと色んな情報が整理され、思考を巡らされているのだろうとベポは思う。
「……やはり、この国はきな臭ェ」
ローが呟くと同時に、今度は炎が遠くの空近くまで、高く壁のようにぶわりと立つ。元より暑いこの国で、更に肌を焼くような熱気がこの場まで届いた。
「これからどうするの? ドクター」
「……あの白猟とかいう海兵……なんの為にここへきたのやら」
ローは空に向けていた視線を街へと戻す。街の喧騒の中に紛れ、数人の海兵が走り回っている。それを見ながら、先ほど耳にした噂話を追加の情報として頭の中に組み立てていく。白猟のスモーカー。東の海が管轄だったらしい。それが何故わざわざこの国に。
この国は今、戦争の火種が燻っている。雨の降らなくなった国。名君と名高き王のダンスパウダー使用疑惑。反乱軍の結成。人のいい商船の船乗りから聞いた現状は、内乱がいつ起きてもおかしくないことを物語っていた。そんな国に、何故わざわざ海軍までもが新たに乗り込んできたのか。
ちりりとローの腹の奥深くに眠る、どす黒い怨嗟が揺れる。まだ何も調べはついていない。先入観を持てば思考が鈍る。そう自制しつつも、奥歯を噛みしめ、掌に爪を立てることが止められない。
珀鉛病を伝染病だと偽り周辺国を焚き付け戦争の火種を大きくしていったのは、世界政府だった。
この国でも同じ事が起きているのではないか。そう、つい勘ぐってしまう。一番きな臭いとあたりをつける存在が、王下七武海であるからこそ、余計に。
王下七武海とは、世界政府の生み出した制度なのだから。
「……あの海兵、探りを入れてみるか」
「アイアイ!」
ベポの威勢の良い返事を背に、ローは来た道を戻り始めた。
「たしぎ、どう思う」
炎の壁を背に歩いていた白猟は、適当な場所を見つけおもむろに腰かけるとそう言った。
側近らしき女が彼の元へ掛けてくると、白猟のスモーカーと呼ばれた海兵は葉巻を噛む隙間から煙を吐き出す。
「麦わらと一緒に、ビビがいた」
「ビビ⁉ ネフェルタリ・ビビ王女ですか!? どうして麦わらの一味と一緒に!?」
「それを今考えてる」
そんな彼らの死角となる建物の影にて、ぴくりぴくりとベポの耳が動く。その隣にて同じように建物に背を預けて空を仰ぎながらローは彼らの話を聞いていた。
そうとは知らず、スモーカーは続ける。
「この国には一人、イヤな男がいる。おれが七武海が嫌いなのを知っているよな」
空を見ていたローの目がすっと細められ、見ることの叶わぬ壁の向こう、あの海兵がいるだろう場所へと向けられる。
(七武海とグルではねェってのか)
胡散臭いタイミングで現れた海兵の存在。七武海サー・クロコダイルと繋がりを持っているのかと踏んでいたのだが、どうも違うらしい。
(……この国の王女が、海賊と共に動いている、か)
たった数十分でイカれた情報が飛び込みすぎだ。更には、その麦わらの船長を白ひげ海賊団二番隊隊長が探していたのだ。
(全く……何がどうなってんだか……)
随分と複雑に色んな人間が絡んでいる。何と何が繋がって、どう絡んでいるのか。このぐちゃぐちゃに絡まった糸を解くには随分と苦労しそうだ。
しかし、ローにとってこの裏社会が蔓延っているだろう国は情報の宝の山だ。
(……麦わらの船は、もう出航しただろう。あっちを追うのは無謀か。情報を得るなら、やはりサー・クロコダイルの方だな)
サー・クロコダイルが拠点とするのは、ここより川を越え砂漠の道を行った先にある町、レインベースだ。
「……ベポ、砂漠越えの準備をするぞ」
「アイアイ!」
預けていた壁より背を離し、ローはベポの方へと目を向ける。ベポはだらりと壁にもたれて座っていたが、慌てて立ち上がる。その際にふらりと体が揺れた。それをごまかすようにすぐに壁に手を当て、ベポはシャンと立って見せ、ローの方へと顔を向けてへらりと笑った。
明らかな立ち眩みと、必死にそれを誤魔化す様にローはため息をつく。
「……お前、やっぱりここで」
「ついていく!」
ベポの食い気味の言葉にローは閉口した。その眉が珍しくも参ったように下げられる。
「……置いていきゃしねェ。約束する」
「おれ、ちゃんと頑張るよ。砂漠もちゃんと耐えて見せる」
「……」
ベポの目が悲しそうにきゅるきゅると揺れる。どうか捨てないでと訴えかける健気な目に、ローはかける言葉を失った。
だから置いていかないし捨てるつもりもない。ちゃんと迎えに来るつもりだというのに。ベポにはその選択肢が初めからない。信頼を勝ち取るのは一生無理なのかもな。なんてちょっと悲しい思いが過る。
ベポのこの表情にローはとことん弱い。深くため息をついてベポの頬を撫で、ローは気温の下がる夜間に砂漠越えをする方法を考え始めていた。
そんなこんなやっているうちに、ふいにローの視界に銀髪の巨体が入る。
「あ」なんて思っている間にも、白猟のスモーカーもまたこちらに目を向けていた。
ばっちりと目と目が合い、空気の凍るような、シーンという音を聞いた気がした。
「やっべ」
ローは口の中で小さくそう呟いた。
「お前……!」
先ほどまで座って部下と話をしていたはずのスモーカーはどうも話を終えて移動を始めていたらしい。運悪く行先はローたちが隠れていた方向。道をただ歩いていれば路地にて目立つ白熊の存在に気付き、そのままローと綺麗に目が合ったわけだ。
ベポの表情にうっかり気を取られていたローは慌ててスモーカーから目をそらして背を向けた。そのまま路地の奥へと歩みだそうとするが、ぶわりと煙が空から降り、行く手を阻んだ。
「スモーカーさん⁉ どうしたんですか!?」
「お前、さっきポートガス・D・エースと一緒にいたやつだな」
背後にはスモーカーの部下である女海兵。正面の煙はスモーカーとなってベポとローは路地に閉じ込められていた。
逃げ損なった。ローは小さくため息を吐き、真正面に現れたスモーカーから嫌そうに目を逸らす。
「あいつも言ってただろう。たまたまあそこに居合わせただけだ。無関係だ」
「お前は何を知っている? 何を聞かれた」
「麦わらのルフィを探していたらしい。手配書を見せられた。それだけだ。あそこの店主にも聞けばいい。それ以上のことは何もない」
ローは無理やりスモーカーの脇を通り過ぎようと歩くが、太い腕がブンッとローの首に巻き付くように振られる。
避けて逃げる手もあったが、この狭い場所であの煙の能力を使われればすぐにまた取り押さえられてしまうだろう。能力を使えば、ローはそれを簡単に往なすことができる。しかし、ローにはそれができなかった。
あの男は、オペオペの実を追っている。下手に使用しその存在を明らかにすれば、どこからか情報を嗅ぎ付け簡単にローの元へ辿り着くだろう。
だからローはずっと名を偽り、能力を伏せて旅をしているのだ。
ローは舌打ちをして煙と化した腕に大人しく首を捕らわれた。
「おい……あんた海兵なんだろ? 善良な一般人に何のつもりだよ」
「お前は何者だ。この国に何の用があって来た」
「観光」
「嘘だな」
スモーカーの表情が険しくなる。飄々と答えていたローの表情が僅かに暗くなった。スモーカーはフンッと鼻を鳴らす。
「臭うんだよ。てめェは善良な一般人とは到底思えねェ。海兵見て逃げようとする奴なんざ、大概碌なもんじゃねェんだよ……!!」
スモーカーはそう言ってローを強く睨んだ。
この長身の青年を捕えねばと思ったのはスモーカーの勘だ。この青年からは、薄汚く暗い、世界の裏を歩いてきた臭いがする。妙に退廃的に見える顔からそう思うのか。濃い目元の隈がそう見せるのか。しかし、海賊や能力者相手の立ち振る舞いや自分を見ての逃避行動。そしてこの国の情勢と近辺に蔓延る組織の影を思えば、スモーカーにはこの男がクロにしか思えなかった。
捕らえて尋問にかければ何かしらの埃が立つだろう。多くの者がそうであったように、隠し事を守るための下手な嘘を吐いたりと、わかりやすい動きを見せるだろう。後ろめたいものがある人間特有の表情や感情の変化を見せるだろう。
そう思い、捕らえた男の感情の機微を見逃すまいと見ていたスモーカーは、ぞわりと這う重く冷たい殺気に瞠目した。
「へェ……随分な物言いじゃねェか、海兵サマ? 自分達が絶対の正義とでも言いたそうだな……」
今まで気だるそうに目を逸らしていた男が、怨念を凝り固めたような形相でスモーカーを見上げてきた。それはスモーカーが想定していたどの表情でも感情でもなかった。
「あんたが正義だと思い込んでるそれで、何人殺してきたんだ?」
青年の発する殺気は、単純な敵意から来るものではなかった。地を這うような声は、地に伏した死者から漏れる冷気のような不気味さを孕んでいた。その死者に憑りつかれたかのような狂気すら宿る金色の瞳がスモーカーを射抜いていた。この場はからりとした暑い砂漠で、活気ある街であるはずなのに。今この時、この青年の周りだけは全く違う空気を持っている。まるで誰かの、何かの死体がいくつも横たわっているような、重く薄暗い空気を感じるのだ。
想定外の青年の反応に、スモーカーは押し黙るしかなかった。当然だろう。スモーカーも、この青年も、互いが互いに目の前の人物を通してその裏にある違うものを見ていた。そして、それが見当違いであることにスモーカーは気づいたのだから。
「ド、ドクターを放せよ! 煙野郎!」
ぼふんと、突如スモーカーは肩を殴られる。その部分は悪魔の実の力によって煙となるも、次々にぼふんぼふんと体が胡散するまで殴られるので、スモーカーはそのままスゥっと煙を散らして青年を開放した。それを成した連れの白熊はグルルと威嚇の声を出しながら青年を背に庇う。
スモーカーは再び煙を集めてたしぎの前へと現れる。たしぎは自分がどう動くべきか図りかねているようだった。何かを言いたそうに口を一度開くも、すぐに閉じてスモーカーを伺いみてくる。それを一瞥したのち、スモーカーは威嚇してくる白熊の後ろの青年へと再び目を向けた。彼は先ほどまで煙で覆われていた首元へと僅かに手を伸ばしたのち、不可解そうにスモーカーを見ている。どうも簡単に開放されたことが意外だったらしい。
スモーカーは深く煙を吐いた。
「…………ドクター?」
さらりと追加された情報をスモーカーは復唱した。あの白熊はこの青年のことをそう呼んだ。とても医者に見えないが、確かに賢そうなガキではある。
「ドクターは凄いんだぞ! この国に来るときも、変な奴らに襲われた商船を助けたんだからな! 負傷者も助けたんだぞ! 本当はそういうの、お前らの仕事なんだろ! ちゃんとしろよ!」
白熊に叱られ、後ろでたしぎが情けなく眉を八の字にしたのをスモーカーは感じ取った。
「あ、あの……スモーカーさん。確かに、少し前、この国に到着した商船からそのような通報がありました。たまたま居合わせた医者に助けられたと。情報から例の組織の可能性が高く、今襲撃のあった島へと船を向かわせている最中です」
スモーカーは空を仰ぎ、思わず額に手を当てた。これで確定だ。
再びスモーカーは深く深く煙を吐き出し、言った。
「…………悪かった」
その言葉に白熊が両手を腰に当ててフンッと荒く鼻息を一つ落とす。その後ろで青年は再び想定外と言わんばかりに瞠目していた。
それら反応一つ一つがスモーカーにとって非常に不本意極まりないものだ。
「……殺しやしねェよ。てめェみたいなクソガキ……」
思わず、そう零した。
「怯えさせちまって悪かった。もう行っていい」
そう言い、スモーカーは彼らに背を向け歩き出した。
「……あ?」
ローは一瞬何を言われたのか理解できずにきょとんとした。この状況で何故そんな言葉が出てくるのかが全く理解できなかったのだ。
だが、次には言われた言葉をそのままなぞって理解し、ローは怒声を上げた。
「…………アァ!? 誰が怯えたってんだ!?」
こめかみに血管を浮かせ、先ほどとは違い純粋な怒りを見せ中指を立てようとするローをベポはあわあわと抑える。
スモーカーは一度足を止めて視線だけ青年へと向けた。白熊に抑えられながらも声を荒げて「切り刻まれてェか!?」と、医者とは到底思えないことを捲し立てている。そんな彼に(子供っぽいところもあるのだな)と、スモーカーは妙な安心を覚えた。
スモーカーは再び前を向いた。しかし歩みは止めたまま。青年に真っすぐ背を向ける。正義の文字が刻まれたその背を。
「海兵は嫌いか」
スモーカーの言葉に、先ほどまで荒げられていた声がぴたりと止んだ。
スモーカーは青年の答えをそのまま待った。聞かずとも答えなんか先ほどの青年の態度が全て物語っている。
海軍という組織が青年の言うように、正義の為に人の命すら簡単に犠牲にすることをスモーカーは知っている。上の立場にいる者ほど、その犠牲の数と重みに麻痺したかのような態度をとっていることも。それに胡坐をかいて驕る様も。知っている。何度も何度もそれに憤りを感じ、何度も何度もそれに噛みついて、ついたあだ名が野犬なのだから。
それでもスモーカーは正義を背負う道を選んだ。だからこそ、過去にきっとその犠牲を体験しただろう青年の想いを背負うべきだと思った。
しかし、スモーカーの耳に届いたのは砂を踏む音だけだった。
スモーカーが振り向けば、そこには何も告げることなく背を向け歩み去る青年と白熊の姿があった。
スモーカーは目を伏せ、再び前を向くと今度は止まることなく歩き出した。
慌ててたしぎがその後を追う。
「…………スモーカーさん」
暫くして、気づかわしげにたしぎが声をかけてきた。スモーカーは彼女の次の言葉を聞く前に「たしぎ」とその名を呼んだ。
「やれることをやるだけだ。今は目先のことを見つめろ。悔しいと感じたなら、尚更だ。レインベースへ行くぞ。準備をしろ」
「……はい!」
「まったく! あいつ、何が臭うってんだよ! ドクターはいい匂いがするんだ! あいつ鼻が悪いよ!」
ローの隣を歩みながらベポは鼻息を荒くして怒っている。そんなベポに愛らしいものを見る目を向けていたローだが、すぐに空をぼーっと仰いで先ほどの出来事に思考を向ける。
なんだか、妙に癇に障る海兵だった。
あの男の発した言葉は、きっと世間一般の大多数の状況下で言えば正しいのかもしれない。海兵を避けようとするのはやましいことがある悪人の可能性は高いだろう。
だが、その発言はローの逆鱗に触れた。それでなくとも、ローは世界政府も海兵も大嫌いなのだ。
人間は己に正義があると思い込んだ時程、非情になる。
海兵なんて存在は、特にそれが顕著に出るのだ。自分が正義だ、自分の敵は全て悪だと決めつけて殺しにかかる。悪だと決めつけた存在にどのような真実があろうと、正義などという曖昧なものを声高に主張する。そして、そんな主張がまかり通っている世界なのだ。反吐が出る。
まだ自分の利益の為に悪だとわかって殺し会う海賊の方がよほど健全に見える。
あの発言から、あの男もまたよくある正義に酔った勘違いの屑野郎だと思った。世界政府が正しいと盲目に信じ込み、自分に敵意を向けるものは全て世の中の正義に反するものだと決めつけてかかる異常者なのだと。……反吐が出そうだった。賢くやり過ごすべきだとわかっていながらも、胸の内から湧いて出るどす黒いソレを吐き出さずにはいられなくなった。
しかし、その途端、あの男は態度を突如変えてローを開放したのだ。
意外だった。本気で殺意を向けたというのに。
あの男なりに、海軍という組織に対し思うところがあるのかもしれないと、少し評価を改めた矢先には、「怯えさせて悪かった」だ。ローのプライドはピキピキとこめかみに血管を浮き立たせていた。完全に馬鹿にしている。かと思えば、次には「海兵は嫌いか」である。
本当に、ことごとく癇に障る海兵だった。
「……キャプテン。おれはキャプテンのにおい、大好きだよ」
隣を歩くベポが顔をローへと寄せる。ローはその首元を撫で上げ、小さく笑った。
「でもまぁ、あいつの嗅覚は確かに間違ってはいねェな」
「えぇー!! どこがだよ!」
怒声を上げるベポの頬をぽんぽんと叩いてローは笑った。
ローが裏の道を歩んでいるのは、確かなのだ。
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