「うんめェ~~~~!!」
普段は静かな食堂に、モンキー・D・ルフィの能天気な声が響く。食堂の店主はカウンターから離れた場所でおっかなびっくりに覗き込みながら「そ、そうかい? よかったよ」と声を上擦らせ応えた。ルフィは店主の様子など気に留めず、上機嫌でテーブルに所狭しと並べられた料理を平らげていく。そんなルフィの正面にて、トラファルガー・ローは哀れな店主を横目に見ながらため息を吐いた。
新世界に存在する島にしては珍しく、この島はどの海賊の支配下にもないようだ。それどころか海賊が上陸するのは初めてなのかもしれない。この小さな島の住民は停泊した船の海賊旗を見て怯えきっていた。
ここは本当に小さな島だ。近場に本島があるようで、ログポースはそちらを示していた。海賊も普通はそっちに上陸するのだろう。長らく脅威に晒されることのなかった小さな島は、偶然通りかかった麦わらのルフィの好奇心により平穏を崩されていた。
食材も資材も揃っていない町だ。おまけにこうも怯えられてしまえば滞在する気も引けるというものである。
「おい、麦わら屋。さっさと食って出るぞ。この町じゃ補給もたかが知れてるだろう。最低限の買い出しだけして出航すべきだ」
「えー! 面白れェじゃんか、ちっちゃな島。もうちょっと周ろう! トラ男!」
ローは口をへの字に曲げて無言を貫いた。それを了承と勝手に受け取り、ルフィは無邪気に飯を食らう。
ローはため息を口の中で押し殺して茶を啜った。悲しいかな、この同盟相手に言って聞かせるのは労力の無駄であることを短い期間でローは学んでいる。いっそ麦わらのルフィが満足するまで放っておくのが一番なのだ。小さな島だ。周辺を探索するのにそう時間はかかるまい。
ルフィは店の食材の全てを平らげ、満足しながら表へ出た。晴天の日中。建物は少なく見渡しは良い。
遅れて店から出てきたローを背に、ルフィはどこへ冒険に出ようかときょろきょろあたりを見回す。そうして、ルフィの目に留まったのは、遠い町の外れにぽつんと佇む小さな小さな木造の建物だった。
「なんだ? あのちっちぇー建物」
町とは崖で寸断され、後ろには森が広がる遠い場所に、その小さな建物はあった。付近に他の住居も見えない。人一人が入れる程度の、何のために存在するのかわからない謎の建物。
「さぁな。物置じゃねェのか」
ローは興味なさ気にそれを見るが、人の踏み入りそうにない場所にぽつんと立つ謎の建造物は、ルフィの好奇心を大いに刺激したらしい。
「なぁなぁ、おっちゃん!」
ルフィは出てきたばかりのドアを開けて顔を突っ込む。ようやく出ていった海賊に胸をなでおろしたばかりの店主から「ひぃっ!?」と情けない声が返ってきた。
「な、なんですかい?」
「あそこ、なんなんだ? あの小せえ建物。すんげェ小せえ!」
「あ、あぁ……あれですか」
遠い景色の中に溶け込む小さな建物。それを指し示すルフィに、店主は顎に手を当ながら小首を傾げる。
「私にもよくわかりませんがね、一年ほど前にこの町にやってきた人が建てたんですよ。どうも、北の海の宗教に関わるそうで」
「しゅーきょー?」
「あそこで神様に罪を告白しないといけないだとかでね……その人にとって大事な場所なんだそうで……あの、だから……」
店主は眉を八の字にして言葉を窄めていく。できれば近づかずにそっとしておいて欲しいという、北の海からやってきた移民への気遣いが見て取れた。
「神様? あそこに神様がいるのか?」
店主の尻すぼみになった言葉の裏など気にせず、ルフィは興味津々に問う。ローは何度目になるかわからないため息を吐いた。
「よせ、麦わら屋。面白れェもんじゃねェよ。あそこには食い物もねェし宝もねェ」
「あそこには何があるんだ? 神様ってやつがいるのか?」
ルフィの問いに、ローは一度瞬きした後、あの小さな建物へと目を向けた。その視線が移ろう間に神妙な何かを感じ、ルフィはその視線を追うでもなくローをじっと見る。
あの建物から何か遠くの情景を見るように、金色の瞳は細められた。それを真っ黒な目がぱちくりと瞬きをしながら見つめる。
「いねェよ」
口の端を歪め、ローはそう言った。
その瞬間、やや離れた場所でぶわっと沸いて広がった殺気に、二人は反応した。
パァンッ
青空に響き渡る場違いな銃声。驚いた鳥がバサバサと飛び立つ。
ルフィの左手のひらがみょーんと伸びる。彼のゴムの手に入った銃弾はそのまま弾かれて空へと飛んで行った。ルフィが上げた左の手のすぐ後ろには鬼哭を構えるローの姿。銃弾は彼の頭をめがけて飛んできた。
「突然何すんだよ。危ねェなぁ」
上げたままの左手をそのままに、麦わら帽子の下からルフィが睨む。彼の視線の先には両手で拳銃を構える男。
その男の瞳は狂気に彩られ、声をかける麦わらのルフィなど見えもしないかのように、ただただ、トラファルガー・ローを見て震えていた。
どうかあの海賊であってくれるなと、男は祈りを込めて外へ出た。島に訪れたのは麦わら帽子の海賊船。しかし、アレが彼らと同盟を組んだことを、ついこの間の新聞で男は知っている。それでも、どうかどうかと祈るも、やはり男の祈りは届かなかった。
麦わら帽子の男に続いて町の食堂から出てくる、黒い服を着た背の高い男。
あぁ、それでもどうか、どうか。たまたまこの町に寄っただけであってくれ。そう、アレは私の存在など知るはずがないのだ。知れるはずがない。わかるはずがないのだ。私は防護服を着ていた。だからアレは私の顔を見ていないはずなのだ。知りようがないはずなのだ。こんなところまで、私を追いかけてくるわけがない。
それが普通の考えだ。あの海賊が自分を追ってここまで来たなどと、被害妄想でしかないはずだと、男もわかっていた。
それでも、拭えない罪の意識から湧いて出る狂気が、あの海賊の姿を悪魔か死神に見せていた。あの海賊は、いつか私を裁きに来るのだと、来ているのだと、そうとしか思えなかった。だって、そうでなければ、あの時のあの子供が、こんなところで生きているわけがない。
震える手はぎゅっと拳銃を握りしめていた。男が護身用に常に持っている拳銃だ。
あの時のことを思い出してしまう銃の存在は、常に男を苦しめてきた。だが……いつか、あの日まともに撃つことが叶わなかった銃弾を、再び込めなければならない日が来るのではないかと男は思っていた。
その拳銃を両手が白くなるほど握りしめ、建物の影から男は海賊達を遠めに見る。
なぁ、全て私の思い違いであったと証明してくれ。さっさとこの島から出て行ってくれ。飯を食いに来たのか? なら腹はもう膨れただろう? さっさと帰れ。こんな島に何をしに来た。こんな小さな島に、一体何があるというのだ。何もない、何もない。滞在する理由が何もないはずだろう!? 何も……。
あの海賊が何もせずに去っていく姿を見たかった。だが男が見たのは、
麦わら帽子の男がある一点を指差し、あの海賊へと視線を向けるところ。
あの海賊が、真っすぐ、あの場所へと目を向けるところ。
男がずっと罪を告白し続ける、あの告解室を見て、笑うところだった。
耐えられなかった。
男の狂気は膨れ上がり、十六年の重みと深さを持って、男をすっぽりと包んだ。
「ちょっ、あ、あ、あんたっ! 何してんだい!」
食堂の店主が悲鳴交じりに言う。このまま何もせず去って行きそうだった海賊に、彼はわざわざ喧嘩を売ったのだ。店主の顔は真っ青だ。されど店主からの非難も聞こえていないのか、男はトラファルガー・ローだけに視線を向け、唾を飛ばしながら叫んだ。
「悪魔めっ!! とうとうここまでやってきやがった!! 悪魔めっ!! 悪魔め!!」
気が狂ったように男は「悪魔、悪魔」と繰り返し叫ぶ。震える銃口をローに向け、正気を逸した様で叫び続ける。
「よ、よしなよ……」
海賊二人をちらちら見ながら顔面蒼白で呟く店主の言葉は、男に届いていないだろう。誰から見ても、男が正常でないのが見て取れた。気が高ぶり混乱しているようにしか見えなかった。ルフィはそんな男をまっすぐ見つめ小首を傾げる。
「悪魔じゃねェぞ? 海賊だ。……あ。悪魔の実は食ったけどな!」
見当違いなことを言うルフィの後ろでローがため息を吐く。男が怒り狂っているのはローが神の存在を否定した故のものだと、ローと食堂の店主は思っていた。熱狂にもほどのある信者だと呆れる気持ちはあれど、ローは別に男の信じる神を真っ向から否定したいわけではない。すこぶるどうでもいい。
「悪かったよ。おれ達はすぐに出て行くから安心しろ」
故に、無用な争いを避けるべくローはそう言った。その言葉に食堂の店主がほっと息を吐く。しかし、
「ふざけんなよ!! なんで生きているんだよ!! とうとうこんなところまでおれを追って来やがった! はは、はははははははは!!」
当の男はローの声が聞こえていないかのように喚き続けた。銃口を下ろそうとしない。ローは眉を顰める。
「……別にお前なんて追ってねェよ」
「生きてるはずがないのに!! なんで生きてるんだよ!! どうやって生きたんだよ!? なんでここまで来たんだよ!?」
全く話にならない。ローは首を小さく横に振った。ルフィは「何言ってんだ? こいつ?」と更に首を傾げている。ローが口を開きかける。男に向かってではなく、ルフィに向かって。もう放っておけ、と告げるつもりだった。それを遮ったのは駆け寄ってきたナミの声だった。
「ちょっと! 騒ぎを起こさないでって言ったじゃない!」
銃声と男の叫び声を聞きつけ様子を見に来たのだろう。彼女の隣には荷物持ちとして同行していたらしき少量の荷物を抱えるサンジの姿があった。
「まーたルフィが何かやらかしたのか?」
「おれは何もしてねェぞ! しっけいだな!」
海賊たちの中でそんなやり取りが行われている間も、男はひたすら叫び続けた。
「なんで生きてんだ。なんで生きてんだ!! ……あぁ、わかるよ。あの地獄の中を生き抜いちまったんだろ!? あの地獄を彷徨ったってんなら、それはもう人なんかじゃない。悪魔か、化け物か、死神だ。そういう生き物になっちまったんだ。そうなるに決まってるよなァ!?」
海賊の仲間が増えたというのに、それにすら気づかぬ様子で男は喚き続ける。遠い場所から町の住民たちが怯えて覗き込んでいる。それでも、周囲にどれだけ人が増えようとも、男には彼しか見えていなかった。
あの時と同じように、視界がきゅぅと狭くなる。すぐ近くの音も聞こえない。そして、彼の姿だけが鮮明に、男の目の前に存在し続ける。
「くそ、畜生。なんでなんだよ。なんで生き残ってんだよ! おれじゃない誰かが殺しておけよ! 一人残らず殺しておけよ! なんで誰も殺してないんだよ! なんで生きてんだよ! だからこうなっちまったんじゃねェか!!」
男の叫びにナミはぱちくりと目を瞬かせ、ローへと視線を向けた。「え、なにあれ?」「知るかよ」そんな短いやり取りが交わされる。
誰にも男の言っている意味が理解できなかった。どこまでもちぐはぐだった。
それでも、男は止まらない。止まれなかった。男が真に恐れているのは、海賊が自分を殺しに来ることではなかったからだ。
「おれは戦った! 勇敢に戦った! 世界の為にいっぱいいっぱい殺したんだ! なのに、なんでたった一匹見逃しちまったそいつが、なんで生き残っちまってんだよ! それ以外は全部ちゃんと殺したんだ! 全部ちゃんと殺したのに! なんでよりによってこいつが死んでないんだよォ!!」
あの時の子供が生きていること。それが何よりの恐怖だった。何よりの罪だった。だからもう、その存在をまざまざと見せつけ、ここにまで姿を現したというのであれば、男はもう確認せずにはいられなかったのだ。
「なァ!? お前なんだろう!? あの時のガキなんだろう!? 畜生、畜生畜生畜生!!」
ガタガタと男の全身が震える。そのせいで、銃がカチカチと小さく音を立てている。
銃越しに、恐ろしいモンスターの姿が見える。あの時のように。あの時は、白衣の男がそこにいた。
「モンスターめ……」
男は唸るように言う。そして、叫んだ。
「ホワイトモンスターめェええ!!」
誰もが気狂いを見る目で男を見ていた。変なものを見る目。少し憐れむように見る目。理解できないものを見る目。
そんな中、男だけがわかった。
トラファルガー・ローの表情が変わっていくのを、男だけが見ていた。
「あぁ、あぁ、あぁああ、あぁあああ!!」
男は喉を震わせ、言葉にならない声を上げた。
「おれが悪いのかよ!? おれが!? ずっとずっと謝ってきたじゃねェか!! 悪かったってよォ!? ちゃんと殺してやらなくて悪かったって、悪かったってェエエッ!!」
男の表情が歪む。眉を八の字にして、泣きそうに歪めて叫ぶ。心の底からの同情、憎しみ、怒り、恐怖。ない交ぜになったぐちゃぐちゃな顔で叫ぶ。
「お前の両親を殺しちまったからさァ!? お前まで殺すのは可哀想だと思ってよォ!? うっかり、うっかりこのおれが、弾を全部、いもしねェ所に無駄弾撃っちまってよォ!? でも、なぁ!! ふざけんなよ!! その方が可哀想って話だよなァ!? あんな、あんな地獄に一人放り込んじまったようなもんじゃねェかよォ。一思いに殺してやらないといけなかったんだよ!!」
男はあの日、白い町の住民――ホワイトモンスターを駆除していた。隊を組み、率先して前に立ち、銃を放ち続けた。
そうして、大きな病院にまで辿り着いた。名札の持ち主である白衣の男と、その妻を撃ち殺した。
多くのモンスターを駆除してきたというのに、あの白衣のモンスターの姿だけはどうにも脳に焼き付いて消えない。だから、さっさとその場から離れたかった。なのに。
大きな声で、張り裂けんばかりに泣きながら、子供が出てきた。隠れていればよかったのに。せめて声を出さないでいればよかったのに。
男は防護服の下で顔をぐしゃぐしゃに歪ませながら、両親に縋り付いて泣き叫ぶ子供に銃を向けた。でも、その銃は威嚇射撃でもしているかのように、子供の足元を、床を撃ったのだ。
「なんで殺さなかったんだよ、なぁ。とんでもねェ過ちだよなぁ!? だって、ホワイトモンスターを、おれは、一人逃がしちまったんだ! そうして、今、生きてやがるんだ!!」
あの時、男の足にまで転がってきた名札。そこに書かれたファミリーネームと同じ名を持つ男が、今、目の前にいる。
地獄のようなあの場所を生き抜いて、ここにいるのだ。
血に塗れた町で、たった一人生きたはずだ。死体だらけのあの町を一人彷徨ったはずだ。死体の山を見たはずだ。男が撃ち殺した多くの遺体を見たはずだ。それらを見て、生きているのだ。それはもう、男にとっては耐え難い、恐ろしい化け物でしかない。
男はずっとずっと、トラファルガー・ローだけを見つめ叫び続けていた。そのことにナミやサンジも気づいていた。
男の口から出された情報はとても信じがたいもので、男の狂った姿からもこれは与太話でしかないと誰もが思っていた。そう信じ切ったままに、ナミは「あの男、何を言って……」と、気狂いの男に絡まれる姿をからかうような気持ちでローへと目を向けた。しかしそこで、ナミの表情が凍る。次いで同じように目を向けたサンジの表情も強張った。先ほどまでナミたちと同じように、可笑しな人間を呆れたように見ていたはずのローの表情が、変わっていたからだ。
男はくしゃりと笑う。やはりあっていたのだと。思い過ごしではなかったのだと。男は笑う。
トラファルガー・ローは、ひどくあどけない顔で唖然と男を見ていた。手配書で見かける嘲笑も、眉間に寄る皺もなかった。ただ唖然と、こちらを見ていた。生まれたままの姿のように。子供のように。
あぁ、やはりあの時の子供なのだ。男はそう確信した。あの時の子供を、男はよく見ていない。見ることができなかった。だというのに、目の前のこのあどけない顔を晒す男は間違いなくあの日の子供であるのだと、その表情を見て確信したのだ。
あの時に、戻ってきたのだ。
強張ったナミの顔が、サンジの目が、男へと戻される。まだどこか信じきれないように、まさかといった風貌で。二人とも感情が追いつかない中、ルフィはギラついた眼を男へ向けていた。彼は目の前の男が敵であると既に認識している。それでも、相変わらず男はローだけを見つめ、銃を構えて叫んでいた。
「おれがいけなかったんだよ! おれが、おれがあの時ちゃんと殺してなかったから!! なァ!? そういうことなんだろう!? 神様はあの日におれを戻して下さったんだろう!? 今度こそちゃんと殺せってことなんだろう!? あぁ、あぁ!! わかるよ! わかったよ!! 死ね、死ね、死ね、死んでしまえええ!! モンスターめ! 悪魔め! 化物めえええええ!!」
ざり、と草履が土を踏む。ルフィは態勢を低くし、右腕を引いていた。
先までは気狂いの戯言でしかなかった言葉は、今、意味を成して聞き捨てならぬ言葉となった。
しかし、ルフィが腕を放つ前に彼の横を長身がゆっくりと通り抜けていく。それを見てルフィは態勢を戻した。
男がひゅっと息を呑んで黙る。
先程まであどけない表情を見せていた子供は、今や俯いた帽子の影で表情が見えない未知の存在として男の前にあった。
一歩、一歩、未知の化け物が近づいてくる。
仲間である海賊達は皆静かにそれを見届けている。誰もが、トラファルガー・ローの動きを静観している。
それが当たり前であるように。それが当然の権利であるように。今のこの場を、全てトラファルガー・ローの意のままにすべきと黙している。
(あぁ……畜生)
男は胸の内で再び化け物を罵る。
今この瞬間、誰もがあの化け物が正しいと思っている。男が間違っていて、男が排除されるのが世界の理であるかのように思っている。
あの時と立場が逆転していた。
こんなのはおかしい。だが、男はそれをどこか納得していた。だってあの子供はあの地獄を生きて死神になって帰ってきてしまったのだから。その権利が、彼にはあるのだと。
ハッハッ、と男の息が途切れ途切れになる。転がり落ちそうなほど見開かれた目に、死神の真っすぐ伸ばされた右手が映る。
その指に刻まれた死の文字が迫ってくる。
「あ、あ、あ、あぁあ、あぁあああああああッ!!」
男は引鉄を引いた。目の前の全てを否定したくて、立て続けに全弾撃ち込んだ。床ではなく、今度はしっかり眉間を狙って。
パン、パン、パン、パンと、乾いた銃声が立て続けに鳴る。手は馬鹿みたいに震えていたが、体のどこかには絶対当たるはずだ。
その瞬間、青い膜がぶわっと広がった。
気づけば、男の撃った弾はあの時のように地面に埋まっていた。
死を突き付ける男の前で、小さな石がぽつぽつと落ちる。彼は変わらず死の文字を男に突き付けたままそこに立っていた。
男は何が起きたのか理解できなかった。あの日と違い、本気で、殺す気で狙って撃った。なのに、状況は何も変わっていない。
未だにあの子供は生きている。それだけが事実として突きつけられていた。
体中から冷たい汗が吹き出る。カチ、カチ、と弾を失った銃が虚しい音を立てる。見開かれた男の目が、空っぽの銃へと向けられる。信じられないといった風貌で。
ざり。
死の近づく音に、男は見開いた目を銃から死神へと戻す。随分と近づいていた。それにより、影になってもその表情が見えた。
「……残念ながら……また、あんたの銃弾はおれに当たらないようだ」
死の文字を掘った手が降ろされる。そうして、彼は再び男へ一歩近づく。
「弾をなくしたあんたは、どうするんだ?」
冷たく、凍えそうな無表情で、彼は尋ねた。
男はひゅっひゅっと息を吸い続ける。うまく息が吐き出せない。くらくらする視界の中、男はただ死神を見ていた。
弾を失くして、どうすればいい。問われた言葉を馬鹿正直に頭の中で反復する。されど男にはどうすればいいかわからなかった。ただそこに居ることしかできなかった。死神は、もう目の前まで近づいている。
「赦しが欲しいのか?」
静まり返ったこの空間で、死神の落ち着いた低い声はやけに甘く響く。
「それとも、罰が?」
ひゅ、と再び息を呑み、男は膝をついた。だらりと両腕を垂らし、弾を失った銃がガチャンと地面に落ちる。
男はただただ死神を見上げた。全てを曝け出すように天を仰ぐその姿は、全ての罪を明かし神からの言葉を待つ信者のようであった。
あぁ、断罪される。とうとう、この時が来たのだ。男はそう思った。
死神が腰を折る。更に、男に近づく。呼気が当たりそうなほどに。真っ直ぐに全てを射抜く深く暗さを秘めた金の瞳が男の直ぐ側に来て、そして、彼は口を開いた。
「神なんかいねェよ」
トラファルガー・ローは、そういい捨てた。
「赦しも、裁きもない」
それだけ言って、彼は態勢を戻していく。何をするでもなくすぅっと男から離れて行き、そして、男に背を向けた。
男は唖然としていた。何の感情も沸いて出てこなかった。頭が真っ白だった。離れていく彼の背を、ただ見ていることしかできなかった。どこか、縋るように見ていた。
そうやって見ていた彼の背が、ふと傾き、こちらを振り向いた。
「……あぁ、でも……一つあんたに聞きたい」
いまだ両腕をだらりと下げ、地面にへたりと座る男へ、彼は問う。
「父様と母様は、最期に、何か言っていたか?」
ざわ、と、男の体に寒気が走った。
今まで真っ白だった頭が、恐怖で埋め尽くされる。
怖い。怖くて仕方ない。
トラファルガー・ローは、未だに恨みも怒りも憎しみも向けることなく、淡々とした静かな表情をこちらに向けている。
不気味なくらい、静かな表情をこちらに向けている。
面影の残る顔で。
よく似ている。父親に。
どうしてそんな顔ができるんだ。
あぁ、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い
男は頬を引き裂きそうなほど指で抑え、人とは思えぬ悲鳴を上げて、何度もこけながら立ち上がり、錯乱したように走って逃げ出した。
色んな場所に体をぶつけ、ふらふらになりながら奇声を上げて走っていく。狂人としかいいようのない様であった。
ローは佇み、遠ざかる狂人の姿を静かに見ていた。追うこともなく、小さくなっていく背をただただ見ている。
何を思って見ているのだろうか。サンジは眉を寄せ、佇む背中に問いかけた。
「……よかったのか?」
ローはサンジの方へと体を傾け視線を寄越した。彼の静かな表情から感情は読み取りにくい。しかし、そこには確かに影があるように見えた。深く暗く冷たい影が。
「本当に、あの男を見逃して良かったのか」
サンジは再び問う。
ことの経緯はわからないが、あの狂人の言っていたことはローの反応から見るに真実なのだ。あの男はローが幼い時、彼の両親を殺したのだ。
随分と痩せた男だった。隈もひどく、やつれて見えた。明らかに精神に異常を来していた。自分たちから見れば弱者でしかなかった。いっそ哀れに思える程に病んでいる男だった。
しかし、だからといって、あの男の罪が消えるわけではない。
「……あいつの言っていたこと、本当なら……お前は」
赦さなくていい。無理に赦す必要などないのだ。
サンジはローが同盟の手前だったから手を出さなかったのではと懸念していた。両親を殺した男が今も尚、意味の分からない理論を唱えて自分を正当化し、罵倒し続けたのだ。憎くないわけがない。むしろこちらが蹴り飛ばしてやりたいくらいであった。
男の背を見送る今も尚、ローは、本当は耐え難い怒りや憎しみを抑えているのではないか。そう思った。
サンジの問いに、ローはゆっくりとニ度瞬きをした。その瞳の奥には何度瞼に隠れようと決して消えない陰がある。それでも、ローは静かに口を開いた。
「もし仲間を銃で撃ち殺されたとして、お前は銃弾を憎むか?」
「……は? 銃弾?」
思わぬ問いかけに、サンジは困惑する。
ローは薄っすらと昏く笑う。
「違うだろう? その引鉄を引いた人物を憎むだろう」
「まぁ、そりゃ……」
「そういうことだ」
再び、ローはゆっくりと瞬きをする。そして次に現れた瞳はどこか遠く暗い何かを見つめていた。
「例えあの男が撃たなかったとしても、違う兵士が撃っていた。何も変わりはしない」
サンジはぐっと口を引き結んだ。ローの言葉から底知れぬ深い闇を、世界の闇を感じて。
「殺すなら、全ての引鉄を引いた人間だ」
その言葉と共に、初めてローは明らかな殺気を見せた。帽子の影から昏い金の瞳が、その闇を睨みつけていた。凍えそうなほど寒気の走る冷たい殺気。それでいてどろどろに煮込み続けたような重く深い怒りと憎しみ。
しかし、それも一呼吸するうちに収めてしまう。サンジやナミだけが、覗き込んだ深淵の余韻に息を詰めている。
「……それに」
再び奇妙な静けさを纏うローは、口の端を歪めた。
「言った通り、これは情けでも赦しでもない」
眉を寄せ、ローは笑う。哀れんでいるようにも、嘲笑しているようにも見える。色んな感情が入り混じった笑みだった。
「一思いに殺された方が、あの男にとって救いだっただろう。おれは、それをしなかったんだからな」
ローはそう言って笑った。
この場で叫んでいた男の言葉が蘇る。
いっそ殺してやるべきだった。あの地獄に一人放り出した方がよほど可哀想であると。そう叫んでいた、男の言葉が。
ローは遠く離れた小さな小屋へと目を向ける。
あの男は、きっと、気づいている。
「麦わら屋」
「ん?」
おもむろに、視線は遠くへやったまま、ローはルフィを呼んだ。
無表情に今まで静観していたルフィが応える。
「冒険は一人で行け」
「えー! トラ男はどうすんだよ?」
一瞬で不服そうな表情を宿し、ルフィは唇を突き出して問う。それに対し、ようやく僅かに振り向いたローは口角を上げて言った。
「おれは酒が飲みてェ」
いつの間にか密やかに閉められていた食堂のドアがローによって再び開かれる。ドアの向こうで跳ね上がる心臓を必死に抑えていた店主がまた情けない声を上げた。
Comment
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みなもさんこんにちは!! Twitterで追っかけてくださりありがとうございます! 最後まで読んで頂けて嬉しいです!
あのラストを書くの凄く楽しみだったので響いて頂けたようでガッツポーズです>w<グッ
このあと旗揚げ組と会ったのなら、ロー君はきっとちょっとベポに甘えた甘えたのお昼寝を頼みそうですね! ベポにぬくもりを求めるようにすりすりしてなんだかちょっと子供のようで。様子がちょっといつもと違うなって長い仲からわかったペンギンシャチあたりが、「何かあったんですか?」って聞いてみたら、「……いや、おれは本当に、愛されてるなって思ってな」って幸せそうなのに悲しそうに笑うから、旗揚げ3人が思わずそれからめちゃくちゃ甘やかしたりしそうです(´`*) ベポたんはぎゅうううってロー君を抱きしめてくれることでしょう! へへ、可愛いですね~。
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