無性に鬱な話を書きたくなったので。ちょっとグロいです。HxHのオークション編を思いっきりイメージして書きました。
一人分の足音が広い大理石の寒々しい部屋に鳴り響く。
神殿のように広い、白い建物。そこに円柱のガラス容器のような物体がこの部屋の柱の代わりとなって等間隔で並んでいる。円柱の中には水が満たされており、それだけであれば幻想的な美しい風景だったであろう。
この風景が、どこまでも続いている。あまりに広く大きな建物だ。所有者の財力が知れる。
当然だろう。ここは、天竜人が所有する建物だ。奴ら曰く、これは美術館らしい。
カツン、カツンと足音が響く。それ以外の音は一切ない。この場に人の気配は一つだけ。
初めてこの場に足を踏み入れた時、ローは言葉を失った。そして、ゆっくりとその顔から表情が消えていった。この場に溶け込むような、冷たく、生気のない目でそれを見渡した。
円柱のガラス。水の満たされたその中には、人間が入っていた。
息のない、遺体が入っていた。
円柱ひとつにつき一人。立ったままの状態で水の中に浮かんでいた。そんな円柱の容器が、百に近い数、この場にずらりと並んでいるのだ。
その遺体の一部はひどく損壊しているが、ある一部は綺麗に残っていた。
真っ白な、陶器のように変色した部分だけが、綺麗に残っていた。
入った当初、静かにそれを見つめたローは、今はゆっくりと歩みを進めている。それらに興味を向けることなく、ただただ奥へ進んだ。
そして、この美術館の主に、辿り着く。
「よぉ、ロー。待っていた」
壁のない、円柱が柱代わりのように建つ大きな建物。その一番奥の壁に、主はいた。
この全ての遺体を見渡す特等席のように、ソファが一つ。しかし、この美術館の主は今、そのソファには座っていない。今は、別の男が座っていた。
張り巡らされた糸。それに絡め捕られた肥え太った天竜人。それを前にどかりと座って足を組む男。
「ドフラミンゴ」
「久しぶりだな」
脱獄していたのは知っていた。ただ、ここで会うとは思わなかった。この場がやけに静かなのは、この男のせいかと納得する。
「おれは別件でこいつに用があったんだが、ここを見てな。お前を待っていた。おれは優しいだろう?」
そう言ってにたりと笑い、ドフラミンゴの長い指がくい、と動く。それに連動して天竜人の首が持ち上がった。糸が食い込み、苦しそうにはくはくと口を開閉している。その首筋に赤い筋が入る。本来ならば、とっくにその糸で切断できていたのだと言わんばかりに彼は笑う。
「ロー」
その光景を、ローはただ見ていた。ドフラミンゴを警戒するでもなく。ただ見ていた。
何も特別な感情は動かなかった。ただ目の前の光景をあるがままに見ていた。
「もう一度、確認してみたかったんだ」
ドフラミンゴは口角を上げて言う。彼が何を言いたいのか、ローにはわかった。そして、言われる前から肯定していた。だからなんだ。どうでもいい。
「お前とおれは、同じかどうかを」
そんなことより……。
ローの目は一点にのみ向けられている。その目に宿る泥のような闇を見て、ドフラミンゴは笑う。
「あぁ、そうだろうよ。おれだって、そうするさ」
堪えきれないと言わんばかりに、低い声で笑う。
部屋中に張られていた糸が突如緩み、天竜人の男が膝をついた。解放した獲物に興味を向けるでもなく、ドフラミンゴはソファから立ち上がると、大きな窓へと足をかけた。その状態で、振り返ることなく言う。
「おれはまた、世界をぶっ壊しに行く」
それだけ告げて、窓から消えた。
その背を少しだけ目で追った。でも、それよりも、と、ローは再び視線を戻す。
糸に絡まったままぜぇぜぇと息を荒げている男へと。
男の体は適当に切断した。首と胴体と足と右腕は壁へと貼り付け、残った左腕を片手で徐に壁に打ち付ける。脂肪に包まれた腕だ。壁にぶつけるたびにベチンベチンと不快な音が鳴る。
本来関節が曲がらない方向へと圧をかける。ベキ、という音と共に男の骨が折れた。
ひどい悲鳴が響く。
煩い。
この声を聴きたかった気がする。だが、こうして聞くと煩わしい。
伝染病患者の死体として国より運び出された遺体が、こうして美術品のごとく長年飾られていたとは思わなかった。
驚きはしたが、政府の闇を見てきた身だ。この程度のこと、こいつらならあり得ない話ではないかと納得もした。今更これに対して新たに怒りが湧くことはない。諦めしかない。これらはそういう生き物だ。
男の折れた腕を、今度は逆方向へ圧をかける。みし、と折れた骨が軋んでずれていく。
新たに怒りが湧くことはないが、十六年前よりずっと落ちることなく残っている憎しみが頭をもたげた。懐かしい感覚だ。あの頃、ずっとこの泥の沼のような感情に飲まれていた。
ここに飾られていた者たちの表情が、あの地獄の世界を呼び起こす。
どれもこれも、ひどい死相だった。知っている。見てきた。その体を揺すって、生きていないかその顔を必死に見つめたこともあった。懐かしい。今や夢でしか思い出すことのなかったそれが、再び目の前に突き付けられた。あの地獄の中で生まれた感情を再び呼び起こすのには十分だった。
この男は、どこまで関わっているだろうか。ただの悪趣味なコレクターだろうか。だが、珀鉛病が伝染病でないことはわかっているのではないか。
ベキッ
男の腕がぷらんぷらんとあらぬ方向へ揺れる。それを放り投げ、男のバラバラになった体が飾られている壁へ仲間入りさせる。
表情を歪め首を必死に振る男を見ながら、ローは男の腹へと手を突っ込んだ。メスによって埋まった腕は、男の腹から腸を引きずり出す。男の目がかっと見開かれ、目ががくがくと揺れた。痛みはないだろうに。
それを、床に打ち付け、一部を踏みつぶした。
肉を踏みつぶす感触。
懐かしい。
あぁ。
男は気が狂ったように叫ぶ。何かを叫んでいる。罵詈雑言もあれば、必死な命乞いもある。そのどちらも、癇に障った。
何もかもが、癇に障る。
今すぐ目の前の存在を消し去りたい。だが、それでは生ぬるい。呆気ない。
死ね。まだ死ぬな。早く死ね。苦しめ。のた打ち回れ。煩い。喚くな。
どろどろと溢れ出す感情はどす黒く、それでいてぐつぐつと煮えたぎっているようで、体に纏わりつくような粘着質を持っている。
この男を甚振れば少しはそれが晴れるかと思った。だというのに、次から次へと底知れずそれは湧き出てくる。
どれだけ痛めつけても終わらない。
憎しみが、途切れない。
べったりと手についた血が気持ち悪い。
それでも、やめられない。
身の内から溢れ出た黒く纏わりつくその感情は、どろどろと足元に溜まって嵩を増やしていく。粘りついて、纏わりついて、足元から、上へ、上へ、腰まで、胸まで。
飲まれる――。
「トラ男」
パン、と腕を取られた。
血塗れになった腕を、掴まれた。
ローはゆっくりとその手の主へと目を向ける。
麦わらのルフィが、真剣な、真っ直ぐな目でローを見ていた。
「……何してんだ。お前」
「……」
何故ここに。
どろどろと濁っていた感情にすっと水が差されたように、それはローを一瞬だけ正気に戻した。だが、すぐにどろりどろりと、それは沸いて戻ってくる。
僅かに見開かれた金の目は、その闇にすぐさま飲まれ、暗く沈む。
「お前には、関係ない」
濁った目で、ローは言う。
「失せろ」
「嫌だ」
ローの表情が歪む。狂気に満ち、どこまでも冷酷な瞳が、じとりとルフィを睨み付ける。
それでも、ルフィは顔色一つ変えずにローを見ていた。
「関係ある。だから」
ぎろりと、ルフィは壁に貼り付けにされて正気を失い始めている天竜人へと目を向けた。その男の前へと体を向け、両腕を後ろに引いた。ゴムの腕が伸びていく。
何をするのか悟ったローが小さく息を吸う。止めなければと思った。面倒になる。
だが、ルフィの方が早かった。
壁が砕かれ、打ち抜かれる音が部屋に響く。巨大化したゴムの手は、血に塗れた壁と貼り付けにされた肉塊を壁ごと綺麗に覆い隠して押し込み、そのまま後ろの壁まで突き破り、外にあったこの美術館の一部であろう別館の壁すらも打ち抜き、更に奥のその壁ごと、遠く、遠くへ吹き飛ばした。
ローはそれを冷めた目で見ていた。
あぁ、面倒なことになったと。アレには聞かなければならないことがあるのだ。内臓も損傷している。死んでいないだろうか。
何を思ってルフィがあれを吹き飛ばしたのかは知らない。何かしらこの場を見て思うことがあったのだろうが、考察する気も起きなかった。彼のことなどどうでもよかった。
今はただ、あの吹き飛ばされていった天竜人の男の元へ行かなければと、それだけをローは考えていた。
だが、天竜人の元へと向かうべく持ち上げた手は、能力を使用する前に再びルフィの手によって捕まる。
「行くな」
その手は先ほどの攻撃によるものなのか、酷く熱く感じた。その熱がやけに肌に纏わりついて、ローはその熱を嫌って腕を引くが、びくともしない。
再び、ローはルフィに生気の籠らぬ目を向ける。
「あいつにはまだ聞かないといけないことがある」
今まで決して見せてこなかったローの冷たく濁った瞳に、やはりルフィは動じない。その瞳の奥深く、濁った奥底に沈むものを見透かすように、ルフィはローを見ていた。そして、怒っていた。
「そんなの後でいい」
「あぁ?」
ローが睨み付け、何かを口にする前に、ルフィはローを捕まえる手はそのままに、もう片方の腕を大きく後ろへ伸ばし、そのゴムの拳を反動で放った。
ローの目の前を風を伴いながら通り過ぎ、ガシャンと背後で音が鳴る。いくつかの円柱のガラスが割れ、中に入っていた水が勢いよく床に溢れ出てきた。それはルフィとローの足元にも流れ込み、ローの体から一瞬力が抜ける。
塩分を含んでいなかろうが、水たまりであれば海と見なし能力者の力を奪っていく。まだ足首が浸る程度の量だが確かな影響を感じてローはルフィに困惑の眼差しを向ける。当然、この男も影響を受ける。だというのに、何故自らの首を絞めるような行動を。
ガラスに満たされていた水は何らかの薬液なのだろう。頭がくらつくような匂いが立ち込める。
ルフィは僅かに呻きながらもその目は何か強い意志にギラつき、目の前に広がる円柱の群れを真っ直ぐ睨みつけていた。少しふらついて見せたが、一歩下がって水から僅かに逃れると、今度は足を大きく伸ばした。
「ゴムゴムのぉ……っ!」
部屋の壁の隅にまで伸びる足。
「ムチィ!!」
それがブンッと振り回され、部屋の円柱をバリンバリンと次から次へ割っていく。倒れた円柱から、遺体が水と一緒に流れ出てくる。
ザバッと一気に増した水嵩は膝下まできた。ローは壁に捕まりながらどうにか立っていた。この惨事を招いた男はローを掴む力もとうとう失くしたらしく、水の中に尻餅をついている。
「ルフィ!? ちょっと、あんた何やってんの!?」
騒動に気付いたのか、入口のほうからナミの声が響いた。
ルフィは力が入らない体を無理やり動かし、立ち上がると、ゆっくり、ゆっくりと歩く。その姿を、ローは茫然と見ていた。
「どこにする」
ルフィが唐突に呟く。
「……何が」
「墓」
「……」
思わぬ言葉に、ローは口を噤む。
ルフィは気力の限界だったのか、水の中に膝をつく。そして、すぐ近くに転がった遺体の首へと腕を回す。頭を支え、持ち上げるかのように。だが力が出ないのだろう、持ち上げることは叶わず水に浮かせながら、そのままルフィはローに顔を向けることなく言う。
「こんなとこ、嫌だろ」
ローは何も答えられなかった。無表情に見えるその顔が、時々、僅かに歪む。
バシャバシャと音を立て、ナミ達がルフィの元まで歩いてきた。
この場の惨状に、無残に転がる多くの遺体を前に顔を青ざめさせている。
「ルフィ……これは……」
まだ円柱のガラスは残っている。それを見てここがどういう場所だったのか、ある程度察しがついたのだろう。青ざめているナミの目の奥には怒りもちらつく。
すさまじい破壊音から、この現状にルフィが怒ったのは明白であった。そしてその思いは仲間たちも同じである。後から入ってきたゾロは周囲を見回した後、水音を立てながら歩み寄りルフィの腕を掴んで持ち上げる。そしてもう片方の手で刀を抜き、まだ残る円柱へと一振りした。
再び遺体が水とともに開放される。いくつも浮かぶ遺体。彼らの肌はところどころ共通して妙に真っ白で綺麗に残る部分がある。それに気づいたチョッパーが体を強張らせた。
「もしかして……珀鉛病、か……? これ……」
「何か知っているの? チョッパー」
ロビンが問う。チョッパーは体を震わせながら必死な形相で皆に叫ぶ。
「もし、そうなら……まずいよ、これ!」
「伝染しねェ」
しかし、チョッパーの叫びは部屋に妙に響くルフィの低い声にかき消された。
ローはルフィに視線を向ける。ルフィもまた、ローに視線を向けていた。
「伝染しねェって。そうだろ?」
何故知っているのか。疑問に思った次の瞬間にはルフィの口から答えが返る。
「お前がそう言ってた」
言っていない。言った覚えがなかった。不思議である。不気味ですらある。見聞色で何か読み取られたのだろうか。
まだどろりと思考を鈍らす泥のせいでローは自分が何を考えていたかすらはっきりしなかった。ただ、あの男をどうやって痛めつけようかしか考えていなかったと思う。しかし鈍る思考で今はそんな些細な疑問を突き詰める気は起らない。
ルフィはローから目を離すと、目を見開いて固まるチョッパーや、円柱を続けて破壊する仲間たちに告げる。
「こいつら、全員、ここから離れたところに埋めてやりてェんだ。手伝ってくれ」
「あぁ。わかった」
「つっても、どこにする? これだけの人数ってなると、そこそこ広くねェと」
「この島からは離れましょう。ナミ、ひとつ前の島に戻れそう?」
「任せて」
ルフィの言葉にすぐ仲間たちは応える。皆思いは一つだった。
「……」
遺体を運ぼうと動き始める麦わらの一味を、ローは冷めた目で見ていた。すぐにそれに興味を失くし、彼は穴の開いた壁へと目を向ける。それを呼び止めるように、ルフィがローを呼んだ。
「トラ男、行くぞ」
ローは振り返らない。
「おれは、アレに用がある」
あの肥え太った男から、まだ何も聞けていない。あのまま野放しになどできない。まだ足りない。
「だめだ。一緒に行くぞ」
背中に届く声が煩わしい。何故麦わらのルフィにそんなことを言われなければならないのか。ローは振り返り、ルフィを睨みつけた。
「おれに命令するな」
どろりと濁り殺気を纏う金の目を、濁りのない真っ黒な目が迎える。その瞳の力はローの殺気に一切気圧されることなく、真っすぐローを射抜いた。
「逃げんな」
言われた言葉の意味がわからず、ローの濁った思考が止まる。それに追い打ちをかけるように、ルフィは言う。
「ちゃんと、向き合え」
怒りを含んだようで、それでいて濁らず真っすぐな黒い目が、ローを逃さず見つめていた。
ルフィの言葉の意味がローには何も理解できなかった。だから疑問のままを彼は口にした。
「…………何に」
「こいつらに」
端的にルフィが回答する。こいつら――そう告げられた先にあるのは数多の遺体だ。
ローは小首を傾げた。その瞳が傍から見れば未だに濁ったままであることを、当人は気づいていないだろう。血に塗れたまま、その瞳でことりと首を傾ける様はあまりに異様で、ルフィの表情は更に険しくなった。
「あんな奴より、こっちのが大事だ。きっとすぐ海軍が来る。今しか連れ出せねェんだぞ」
天竜人に危害を加えたのだ。大将が動くかもしれない。直にこの島には多くの海兵が押し寄せるだろう。ローとてそんなことはわかっている。
「……だからこそ、あの男に用がある」
ローはルフィを真っ直ぐ見返して、そう言った。
だからこそ、今のうちにあの男に会うのだ。この貴重な時間を少しでもあの男を破壊することに費やしたいのだ。あの男の知る情報を内蔵と共に引きずり出してやる。
ふつふつと、ぐつぐつと、あの黒い泥の沼が湧き上がってくるのを感じる。
それを引き裂くように、ルフィの怒声が響いた。
「お前、こいつらがこんな風にされてたから怒ってんだろ!?」
ローはルフィのその言葉に、何故か息が詰まる思いをした。彼の問いに即答ができなかったのだ。思考が停止したかのように、真っ白になって上手く考えが浮かばない。そんな自分の現状に疑問すら抱いてローは硬直した。
やや間を開けて、ようやく考え至ったのは、“多分、違う”という曖昧な答えだった。
少なくとも、ルフィの言うような純粋な怒りなど持ち合わせてはいなかった。
死体の山。血の海。瞬きすることのない見開かれた目。肉の感触。腐敗臭。あの地獄の日が這い上がってどろどろと溢れ出てきただけだ。決して消えることのない奥底に染み込んだ黒い泥が、ふとしたきっかけで呼び起こされただけなのだ。
何より、こんなことは今更なのだ。遺体がどこぞの人間に弄ばれていようが、ゴミのように山積みにされていようが、もはや何も変わりはしない。十六年前に、全てはもう終わっているのだ。
これらはただの遺体。抜け殻だ。中身のないただの腐った肉片だ。ここに、彼らはいない。もう動くことはない。どれだけ泣き叫んで揺さぶって願おうとも、決してもう動かないのだ。
山と積まれ、下のほうでは押しつぶされ、ただ酷い匂いをさせているだけの冷たい物体。あの温かかった者たちとは似ても似つかぬ、意味のないものだ。
そんなものを、今更どうしろというのだ。
「そんなものに、意味などない」
ぐちゃぐちゃに絡まった糸を一つ一つ解してようやくローは回答を出した。それがローの経験則から基づく答えだった。
「……」
ルフィの瞳があまりの怒りに震える。目を剥き、ローを凝視する。
「もういい、わかった」
低く、唸るように彼は言った。そして、打って変わりよく響く声で仲間を呼ぶ。
「ウソップ!」
一触即発の空気に息を呑んでいたウソップがびくりと肩を跳ねさせる。
「な、なんだ?」
「海楼石の手錠を出してくれ」
ルフィはウソップの方を見るでもなく、ローを睨んだまま言う。
「あぁ? そんなもん、何……に」
口にしながらも用途がわかったのだろう。ウソップの顔が青褪める。それを気にも留めないで、ルフィは怒りの表情をそのままに堂々と言った。
「トラ男、無理やり連れてく!!」
ゾロに支えられながらローを睨むルフィの目は「絶対おれは曲げない。お前が折れろ」と言わんばかりの不遜な態度だった。ローはその目を見て諦めた。本気の目である。彼の仲間に囲まれ、水につかったままの重い体で抵抗は無駄であろう。
ウソップがおそるおそる大きなカバンから海楼石の手錠を取り出し、ゾロがそれを受け取った。海楼石の手錠と交換のように支えていたルフィをウソップへと任せると、ゾロは無表情で手錠をいじりながらローの方へと歩いてくる。ローはただただその光景を黒い沼から見ていた。
海楼石の手錠をされたローはドレスローザの時のようにルフィに担がれるはめになった。ローはルフィに担がれながら、遺体が次々に運び出されていくところをぼんやりと眺めていた。
百に近い遺体を運ぶのにはひどく苦労しただろう。どうにか並べたくも面積の足りないサニー号の甲板にて、遺体はなくなく一部積み重ねて置かれた。青々と茂っていた芝生を覆い隠す遺体とその独特な臭いに包まれ、一味の表情は酷く重いものとなっている。
ローは甲板の階段部分に腰掛けていた。もう海を出ているというのに海楼石の手錠はそのままだ。隣にはルフィが無言で座っている。あれから二人の間に言葉が交わされることはなかった。それでもルフィは必ずローの隣にいた。もうこちらを睨みつけることはないが、黙って隣に座っている。ローは海楼石で重い体を柱にもたれさせながら茫然とただ目に映る景色を見ていた。
折り重なった遺体が見える。乱雑に投げ入れ積まれたあの時とは違い、整然と積まれている。それでも、ああやって人間が折り重なり積まれている姿を見ていると、ふつふつと黒い泥が湧き上がってくるのを感じる。あの腕と腕が重なり合う間へと潜り込む感触。冷たく、重く、暗い世界。じりじりとあの日の記憶が胸を焼いていく。焦燥感に似た何かがこみ上げる。やはりこんなところにいないで、今すぐ、壊したい。
バシ、と音を立てて腕を掴まれた。やはり、妙に熱く感じる手だ。ローは自分の右腕を一瞥する。ルフィがローの腕を握っていた。ローはルフィの顔へと視線をやる。またあの黒い目がこちらを射抜いているかと思ったが、ルフィはこちらを見ることはなく、黙って真っすぐ前を見ていた。
力強く握られた手首が熱い。その熱に鬱陶しさと人肌の温もりによる安堵感の両極端を感じてローは顔を顰める。自分の思考を咎めてくる男の存在が煩わしい。何故報復を咎められなければならないのか。理不尽な現状に不満と怒りが胸の奥底でぐるぐると回る。しかし一方で、この男が声をかけてきたり何かしら接触してくる度に、あの黒い泥が引き裂かれ一瞬とはいえ遠のくのだ。暗闇の世界に差し込む一筋の光のようなそれを、ローは振り払えないでいる。しかし、その光はあらぬところまで照らしてしまいそうで。今自分が立っている為に必要な支えを崩してしまいそうな気がして――。
漠然とした不安感が馬鹿らしくなり、ローはそこで思考を停止した。未だにローの腕を握る男と同じように、ローもまた前を見る。
折り重なった死体が見える。しかし、そこにブルックとウソップ、フランキーがやってきて、大きな白い布をそっと被せて隠した。
布が飛ばぬように端に重りとなる雑多なものが置かれる。
布を歪に押し上げる中の遺体。あのでっぱりは腕だっただろうか。足だっただろうか。そんなことを考えながら、ローはただ真っ白な布の塊を見ていた。
辿り着いたのは無人島。やや肌寒いが穏やかな島だった。木々は少なく、開けた土地が広がっている。草原がさらさらと風に揺られていた。
船から降りると同時にローは海楼石の手錠を外された。手首をさする以外特にやることもなかったローの腕を引き、ルフィが言う。
「ここでいいか」
ローは何も答えなかった。ルフィの言葉の意味はわかっている。しかし、やはり自分はそれに興味がないのだ。だからルフィの言葉に対する答えなど浮かび上がらなかった。
無言を返すローの顔をルフィはじっと見ていた。その表情から何を読み取ったのか、ルフィはそれ以上何も言うことなく視線を外すと、ローの腕から手を離し、開けた土地の真ん中へと歩いていく。船から降りたときより手にしていたスコップを、彼は地面に突き立てた。
麦わらの一味は黙々と穴を掘り始めた。能力を使ったり、メカを使ったりと、その個性を遺憾なく発揮して深く大きな穴を掘っていく。
穴が十分な深さとある程度の面積に達したところで、船から遺体の運び出しも並行して行われた。ロビンはあの建物から運び出したときと同じように、手を咲かせてバケツリレーの要領で遺体を運んでいる。脱出するときは急がねばならなかったが、時間制限もない今は緩やかに、そうっと一つ一つの手は遺体に触れていた。
ブルックはロビンの手から遺体を受け取り、そろりと穴へと降りるとそれを横たえる。腕の残っている遺体であればその手を胸にて組ませる。瞼の動く者であれば見開かれた目を閉じさせ、そうでなければ大きな白い布を割いてその顔に被せた。
ナミは一人で船と島を行き来していた。彼女もまた服が汚れるのも厭わず遺体を運んでいた。彼女一人でも運ぶことのできる、子供の遺体を抱きかかえて。
彼女は子供の遺体を寄り添わせるように一箇所に横たえていく。彼女は運ぶ際、毎回ローへと視線を向けた。悲しみを深く刻んだ重い表情で、何かを確認するかのように無言でローに視線を向ける。ローが何も返さないことだけを確認して、彼女はその作業を繰り返した。
ローにはその視線の意味が何となくわかった。自然と感じとってしまう見聞色の能力により、彼女の子供たちへの気遣いが読み取れた。
ナミは、いや他の麦わらの一味たちも察しているのだろう。ローがこの死者達と何らかの関わりを持っていたことを。
だからナミは死者たちのことを唯一知るかもしれないローに問うているのだ。この子供の親はいなかっただろうかと。もしわかるのであれば、せめてその近くにて眠らせてあげたいと。
しかし残念ながらローには子供たちの顔に見覚えはあっても、その親の顔までは記憶にない。そもそもこの場にない可能性の方が高いだろう。ここにある遺体は百に満たない数だ。あの日消えた命の数と比べものにならない、僅かな数。
だからローは何も答えないし、ナミはせめてと思い、子供たちを隣り合わせていく。
ローはただただその光景を見ていた。どこか頭に靄がかかったような感覚を抱きながら、そっと鬼哭を握って立っていた。
一切手伝わないローを麦わらの一味は非難することなく着々と作業を進めている。
ただ、ローがそこにいることだけは確認しながら。
とても時間がかかった。穴を掘ることよりよほど遺体の運搬に時間をかけていた。
あの日のように、足や腕を掴んで放り投げ、山積みにしたならば速やかに終わったことだろうに。
彼らは一人一人抱きかかえるように遺体を運び、折り重ねることなく一人一人横たえ、わざわざその身なりを整えていく。
相反する光景に目眩がする。
これは意味のないことだ。ローにとって、そうであるはずだった。なのに、ローはその光景をじっと見ていた。目をそらすことなく見続けていた。
また一人、中に横たえられる。
ひどい形相だ。苦悶に満ちた表情。薄く開いたままの目はどろりと怨嗟を感じるものになっている。体にいくつもの弾痕があるが、どれも急所は外しているようだ。即死できずに苦しんで死んだことだろう。
死んだ目からそんな死に際を垣間見ていたら、ふと、それの瞼の上に手が置かれる。そっと瞼が下ろされる。手を胸で組ませ、祈るように横たえられる。
それだけだ。たったそれだけで、先ほどとは打って変わって、安らかに眠っているように、見えたのだ。
そんな不思議な光景がずっと繰り返されている。
これはただの遺体で、中には誰もいないことをローは知っている。こんなのはただの人形遊び。これがただの肉塊でしかないことを、誰よりも身を以て知っている。それが覆せない現実だった。
だというのに。
ゆっくりと、掘り起こされやわらかくなった土を、かけていく。
一人、一人。何度もそれを繰り返す。
瞼を閉じれぬ遺体には、そっと布を被せその苦痛に満ちた顔を隠す。
たったそれだけで消えやしない怨嗟があったはずだ。なのに、そうやって一人一人土を被せられることで、それが隠されていく。
そんな不思議な光景を見ていたら、ふとブルックが運ぶ遺体が目に入る。
「あ……」
ローはここに来て初めて、小さく声を出した。
本当にか細い、普段であれば誰も気づかぬような声。だが今は誰もが口を閉ざして作業していたため、簡単にこの場に響いた。
ブルックの足が止まり、彼はローへと体を向ける。そうして、彼の運ぶ遺体がローによく見えるようになった。
あの妙な薬液によるものなのか、はたまた、珀鉛病による皮膚の変化が原因か、十六年経っているというのに、遺体は原型を留めている。それが誰なのか、ローにはわかった。
ブルックがそっとローへ歩み寄る。すぐ目の前に立ち、やや腰を折って、その人をローの元へ。
差し出されるように目の前に連れられた遺体に、ローは無意識に腕を出していた。貰い受けるように、その遺体の下へ腕を差し込んでいた。
ブルックは遺体をローへ受け渡す。ずしりとローの腕に遺体の重みが与えられる。ローは暫くその状態で呆然とした。全ては無意識の行動で、自分が何をしたいのかわからないから。
されどそんなローの脳裏にナミの顔が過る。何度も何度もローを静かに見つめる彼女の目を思い出す。
ローはゆっくりと歩き出した。
深く掘られた穴を降り、子供たちが集められた場所へ。
その隣に、ローは腕の中の遺体を横たえた。
子供たちだけは逃してもらえると、そう最後まで信じて祈っていたシスターを。
彼女の瞳もまた、暗く淀んで晒されたままになっている。希望を持ち続けようとしていた彼女は最後に何を思って死んでいったのだろうか。その瞳が何かを語っているように見えて眺めていた。
ふと、細い手が彼女の目を覆った。そして、そっとその瞼を下ろす。
ローが顔を上げればそこにはナミがいた。憂いを帯びて優しくシスターを見つめる彼女の視線を辿るように、ローは再びシスターを見る。
あの瞳は隠され、ただ穏やかに眠るような姿がそこにあった。
ナミの手によって彼女は胸の上で手が組まれる。そうすればかつて穏やかに神へと祈りを捧げていたシスターが戻ってきたかのようで。
こんなのはただの気休めである。たとえどう身形を取り繕ったとしても、あの日彼女が信じ続けた全ては裏切られ、血の海となった現実に変わりはない。たったこれだけのことで消えぬ悲しみと絶望だった。どれだけ隠してみせようが消えないものだ。
されど、もうローは感じ取っていた。彼らはそれらを隠したいわけではないのだ。なかったことにしようとしているわけではない。恨みを手放せと強制しているわけではない。それは彼らが遺体に触れる所作の一つ一つから証明されていた。
どうか、安らかに眠れますようにと、ただ、愛を注がれているだけなのだ。
それは、遠い昔、ローにも経験のあったことだ。
神に祈るのだ。彼らがどうか安らかに眠れるようにと、手を組み、祈るのだ。
それを教えたのは、目を瞑り祈るシスターであった。
穏やかで温かな日々が呼び起こされる。当たり前のようにあった、人を慈しみ祈ったあの日。
いつの間にか目の前の景色が歪み、頬をつうと伝って、柔らかくなった土にそれは落ちた。
ぽとり、ぽとりと、いくつも。勝手にこぼれて、落ちていく。
涙なんて、とうに枯れたと思っていた。それが、勝手に、勝手に落ちていく。
人としての尊厳を奪われた彼らに再び注がれた愛情への喜びが。今までそんな当たり前のことが許されなかったことへの痛みが。そんな彼らをただ置いていくことしかできなかった悔いが。
この十六年間、受け入れることのできなかった感情が、身を裂くような痛みを伴って入り込んでくる。
ローは歯を食いしばった。そうでなければ情けなくも喚きだしてしまいそうだった。狂ってしまいそうだ。
そんなローの頭の上に、ぽんと手が置かれた。帽子越しだというのに、やけに熱く感じるそれには覚えがあった。
「お前、バカだなぁ」
ルフィが呟いた。いつの間にやらローの横に立ち、その頭に手を置いて、彼は言った。
「こんな重てェもん一人で抱えて、お前バカだなぁ。一人で持てるわけねェじゃねェか」
呆れ果てたように、ルフィは言った。
本当に、本当に重たかったのだ。それを運んだ麦わらの一味は身をもって体験している。何よりも重たかった。船が沈むかと思うほどだった。
「それを一人で抱えてさ。んなもん、潰れるに決まってんじゃねェか」
そうやって一人で抱えきれなくなったから、大切なものを落とすしかなくなったのだ。
大切なものを落とす痛みに耐えられなくて、その痛みを感じないようにしてしまったのだ。
だから、歪んで爛れていったのだ。
大切な人の遺体を蔑にされて、悲しくないわけがないのだ。
当時たった十歳の少年は、国中の人間を殺され、たった一人生き残ったとき、彼らを弔う猶予も力もなく、その遺体に紛れて逃げることしかできなかった。大切な人たちが物のように積まれ、運ばれていく様を、眺めることしかできなかった。
そのあまりに残酷な時間を生き抜くために、その感情を封じる以外になかったのだ。あの時は、たった、一人だったのだから。
だからこそルフィはローをバカだと思う。彼にはもう仲間がいるのだ。それを、きっとまた私情であるからと遠くに置いてきてしまったのだろう。本当にバカだと思う。一人で抱えきれていなかったものを、耐えられていたと勘違いして、されど押しつぶされていたことは自覚していたから、そんな姿を見せたくもなかったのだろう。本当にバカだ。そんな時だからこそ、手助けしたいとみんな思うだろうに。
「あいつは、みんなで一緒にぶっ飛ばしにいくぞ。トラ男」
人のいない島には、真っ白な十字架がいくつも建てられた。
遺体の中に魂があるかどうかなんてわからない。これはただの人形遊びで、身形だけを取り繕った気休めでしかないかもしれない。
されどローの中にあるシスター達は間違いなく、ようやくあの日の地獄から、懐かしき温かな祈りの日常へと帰った。
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こここここんにちは!! モ、モリゾー様っ!? とお名前に思わず二度見してしまいました!! あばば、お話読んでいただけて光栄ですっ 凄く嬉しいです!! 余韻感じて頂けるの、なんかもう凄く嬉しいです~~っっ
数年前よりこっそりモリゾー様のファンしておりまして……っ こっそり勝手ながらリンク失礼致しました! もう本当に大好きでございます。いつぞやにこっそり「そんなハートの日々」の感想を送らせて頂いておりましたのは私めです……。
あの、特に20年後シリーズめちゃくちゃ好きなんです……。色気増してるローさんと、過保護増してるペンさんが最高にございましてほんと……何度も読み返しこっそり拍手を送らせて頂いております……っ! 大好きです……大好きです……(拝む)
あわーー! リンクありがとうございます! どうぞお好きに貼ったり剥がしたりしてやってください!
コメント下さり本当にありがとうございます!
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ぬおお、ハート小説の神と崇め奉っているモリゾー様にそう言っていただけると本当に嬉しいです……っ! 麦わらに振り回されるロー君は本当に愛らしいですよね(とろけ顔)
わぁ~リンクありがとうございます!! 気が向かれましたらまた是非お越しください~!
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