ハートが夢見る医者 – 4

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時を遡ること八時間前。時刻は朝の十時。わずかな仮眠を終えたチョッパーが慌ててまた医務室に入っていくのを見届けたキッチンでのことだ。

サンジはずっとワズワズの実の影響で伏せっていた電伝虫が目を覚ましたことに気づいた。まだ本調子ではなさそうだが、チョッパーの薬が効いているのだろう。電伝虫はそれまでくたりと床に預けていた頭をあげて見せたのだ。

サンジはチョッパーより預かった吸い飲みを使って水を与えながら電伝虫の頭を撫でる。そして、期待を向けて祈るように「繋げるか?」と尋ねた。そのサンジの顔を見て、電伝虫はこの連絡の重要性を十分感じ取ったのだろう。まだ回復しきっていないだろうに、ハートの海賊団と見事繋いで見せたのだ。

通話に出たのはペンギンであった。本来であれば昨日のうちに連絡をし、作戦を決行している予定であった。それが今まで音信不通となっていたが故に、ペンギンの開口一番は「何があった?」だった。

敵襲によりナミとローが倒れたと告げた時、ペンギンは驚いてはいたもののまだ冷静さを保っていた。だが、容態を聞いてきたペンギンに敵の能力を説明すれば、電伝虫の向こうで彼は息を呑んだ。そして、珀鉛病の再発症であると告げた瞬間、それまでの冷静さは吹き飛んでいた。

『シャチ!! シャチ!! いるか!? すぐに全員連れ戻せ!! 出航の準備をさせろ!!』

電伝虫の向こうで声を荒げて仲間を呼ぶペンギンは、サンジの存在など忘れているかのようであった。サンジは目をぱちくりして固まる。声をかけられる様子じゃない。

受話器の向こうでは突如の出航を命令され狼狽えるクルー達のどよめきが聞こえる。そう時間を経ず、シャチがペンギンに事情を問う声が漏れ聞こえた。他のクルー達と同様、潜伏中だというのに突如出航を命じられたことに疑問を抱いているようだ。だがそれも、ペンギンからローが珀鉛病を再発症したのだと聞いた瞬間、「なんで」と小さく呟いた後、それ以上の説明を一切聞くことなく無言で駆け出して行ったようだった。

シャチもが出航に向けて動き始めたからだろう、受話器の向こうでは疑問の声は止み、緊急であると察したクルー達は各々動き始めたようだ。それを見届けて、ようやくペンギンはサンジへと再び意識を向けた。彼はサンジを放っておいたことへの断りも忘れ、叫ぶように言う。

『珀鉛病は伝染しない! 政府が発表している情報は嘘だ!!』

「あ、あぁ……伝染しねェってのはローから聞いた」

電伝虫越しにも伝わるあまりの剣幕に、思わず狼狽えながらサンジは答えた。一拍置いて、ペンギンが何故焦るようにそう告げたのかを理解し、サンジは落ち着いた声で言う。

「安心しろ。ウチの自慢の船医が診ている。珀鉛病の歴史もわかっているつもりだ。お前の心配するようなことはねェよ。ローには二年前にウチの船長が世話になってんだ。絶対助ける」

ペンギン達も珀鉛病の歴史については知っていたのだろう。ローが再びその迫害に晒されるのではないかと殺気立っているのだ。それを察したサンジの声は情と義理を重んじるもので、ペンギンの懸念を払拭するのに十分であった。

『……そう、か。……ありがとう』

少しの沈黙の後、声を詰まらせながら礼を言われる。その短い言葉と声から珀鉛病を取り巻く闇を再び垣間見て、サンジは眉を寄せた。

電伝虫越しのサンジの様子には気づくことなく、ペンギンは次いで、矢継ぎ早に質問を飛ばす。

『ローの容態は? 意識はあるのか? どこまで進行している? 能力によるものなんだろう? 治せるのか?』

「ちょっと落ち着け。そういうのはチョッパーに聞くのが一番だ。だが回復に向かっていると聞いている。病気や治療に関してチョッパーもお前らに色々聞きたいそうだ。教えてやってくれ」

『あぁ、もちろんだ。すまない、助かる。あとすぐにそっちへ行くから、航海士とも話がしたい……あぁ、ナミさんも倒れているんだったな……後でベポを出すから、今舵を取っているのは誰だ? そいつと打ち合わせを。それと、悪いが作戦は白紙に戻してくれ』

サンジは思わず苦笑しながら応える。まさか潜伏中のクルーたちが何の躊躇いなく全員こちらへ戻るという判断をするとは思っていなかった。それも、船長であるローの判断を仰ぐことなくだ。だが、それが一番だろうなとサンジも思った。先のローの様子を見たからこそ、余計と。

 

かくして、ハートの海賊団と麦わらの一味の船はつい先ほど合流を果たしていたのだ。

知らぬは今まで眠っていたローのみだ。

「お前ら、何で……」

「キャプテン!? 大丈夫!? 痛い? 熱は高いの?」

ローが言葉を発する前に、ベポは飛びつかんかの勢いでローの元まで行く。ルフィは座った体勢から器用に後ろへ飛び退くようにして立ち、ベポへとその場を譲った。

ベポはベッドに両手を乗せてローを覗き込む。純粋な目に涙を溜めながらふわふわの頭をそっとローの胸元に寄せてくるものだから、ローはペンギン達にかけようとしていた言葉を一度止めざるを得なくなった。

うっかり二、三度、ベポの頭を撫で、はっと我に返るとベポの頭を押し戻す。そうして仕切りなおすように困惑と不機嫌を混ぜた目で、ローは正面に立つペンギンを睨み付けた。

「どういうことだ。お前ら、作戦はどうした」

「おれの一存で停止しました。緊急事態だったもので」

「……何があった?」

「船長が病気で倒れたと連絡が入りましたから」

ローは肺の中の空気を全て吐き出さんばかりの深いため息を吐いた。ため息と同時に下がった頭を起こすことなく、そのまま目だけをぎろりとペンギンへ睨み上げる。

「お前……そんなくだらねェことで」

「くだらなくない」

ローからの威圧をものともせず、間髪いれずにペンギンは答える。ローは思わず口を噤んだ。ローがくだらないと断じた瞬間、ペンギンから怒気を感じたからだ。怒っているくせにどこまでも冷静に、静かに、真っ直ぐローを見ている。こうなったペンギンが簡単に引かないことを、ローはよく知っていた。

「珀鉛病の再発症と聞きました。楽観視できる病気じゃないことはあんたが一番わかっているはずだ」

ローは拗ねた子供のように顔を顰める。自分が倒れたせいなのはわかっている為、ばつが悪い。

「……おれなら治せることもちゃんとわかってんだろ」

それでも言い訳のように言うローにペンギンは溜息を吐いて答える。

「えぇ、わかってますよ。見てきましたから。見てきたからこそ、一人にしておけないんです」

「……」

十三年前。オペオペの実を手にしたばかりのローは、まだ能力を使いこなせていなかった。既に余命幾許かというところまで進行した病に対し、少しずつ手探りで能力を使い、独自の治療法を探すこととなった。能力使用による体力の消耗という副作用もあって、ローの容態は今回同様の一進一退を長く繰り返したのだ。

そのローを看病したのがペンギンとシャチとベポだ。高い熱を出して意識を失うローを見ては何度もこのまま死んでしまうのではないかと眠れぬ夜を過ごし、目を覚ました彼を見ては僅かな安堵を得て、を繰り返した。

確かにローはあの病を自ら治療して見せた。三人は間近でそれを見てきた。そして、一歩違えば、ローの命はなかっただろうことも、三人は見てきたのだ。

「そーそー」

シャチが頭の後ろで手を組んで宥めるように言う。

「そりゃ、ちょっと熱が出た~とかだったら、めっちゃ心配はするけど、おれたちも勝手なことはしなかったって。でも、この病気はちょっとさ、ワケが違うじゃん?」

病気による体への心配もある。同時に、この病気がローの心をどれだけ傷つけてきたかも、三人は肌で感じてきた。たとえ珀鉛病の症状が軽かったとしても、この病にローが再び侵されているのなら、三人はローを放っておけないのだ。

シャチはローの元へと歩み寄り、ベポの隣に立つと腕を伸ばしてローの頭の上にぽんと手を置く。

「おれもペンギンもベポも、心配だったんだよ。ロー」

それはクルーとしてではなく、一つ年上の兄貴分としての言葉だった。シャチのその言葉に、ローは完全に閉口せざるを得なくなった。

ペンギンが詰めていた息をふっと吐いて、同じようにローの元へ近寄る。シャチに場所を譲られ、ベッドに片手を付いて近づくと、ローの額に手を当てた。

「熱は……やっぱり高そうだな」

額に当てられる掌の温もり。同盟相手の前だというのに無遠慮極まりない。そんな、おかまいなしに与えられる手のぬくもりが懐かしかった。ローがどれだけ大丈夫だと言っても聞かずに心配してくる騒がしさも、十三年前と何もかもが同じだった。

「……ったく、お前らは……」

完全に毒気を抜かれたローは、呆れながらも胸の奥底にじんわりと染みる熱に薄く笑みを零した。

「いつまで経っても心配性で……どうしようもねェな」

いつもの発作だから問題ないとどれだけ説明しても、心配だとピーチク喚いて。頼んでもいないのに看病をし始めて……そんな彼らに、どれだけ救われただろうか。

ローはそれ以上何も言わなかった。額から手を放していくペンギンと、その隣のシャチを見上げた後、ベポの頭を寄せてその肩へと無遠慮にもたれかかる。なんだか骨の芯をへろへろにされたような気分だった。少し情けなく感じるが、仕方ない。この心地よい温もりに、どうしようもなく安心してしまったのだ。

ベポはローの背へと腕を回し、より自分へと抱き寄せるとすりすりと頭を押し付ける。ペンギンとシャチは吐息を零して微笑んだ。そして、二人はルフィの方へと振り向く。

「世話になったな、麦わら。本当に……本当に、助かったよ。ありがとう」

ペンギンの言葉には重みがあった。それだけの想いが詰め込まれた言葉だった。

ルフィはニカッと笑う。

「おう、当たり前だろ! トラ男は友達だかんな!」

即座にベポの腕の中からくぐもった声で「友達じゃねェ……」と否定が入る。いつの間にやらベポの腕の中に完全に閉じ込められたローの声はこもっていて小さく、ペンギンとシャチは肩を震わせて笑いを押し隠した。

「ほら、ベポ。船長が潰れちまう」

シャチがベポの肩を叩く。ちゃんと力加減はしていたのだろう。解放されたローの顔に苦しげなものはなく、心地よさそうにベポに体を預けている。

「さ、船長。艦に戻りましょう。ベポ、船長を運んでくれ」

「アイアイッ!」

「待て」

膝の裏へとベポが腕を差し込んだ時、微睡みかけていたローがバッと頭を起こした。

「作戦が全て無しになったんだ、今後の話が必要になる」

ローは至極真面目な顔をして言った。しかし、周囲の人間から返ってきたのは呆れだった。この期に及んで尚、休むことを優先しない重病人に、サンジは腰に手を当てながらため息を吐く。

「病人が何言ってんだよ。元気になってから言え」

それに同調するように、ペンギンも呆れ混じりに続けた。

「はいはい。そういうのはおれたちがやっておきますから、今は自分の体のことだけ考えて下さい」

「ペンギン」

あやすように言うペンギンの言葉に対し、ローの声音は固かった。

ローから先ほどまでの安心し切った温和な気配が消える。嗜めるようにクルーの名を呼ぶ姿は、ベッドの上だろうと船長としての威厳を持っていた。

いくら病人とはいえ、彼は船長として話だけでも聞くのが筋と思っているのだ。この甘え切った空気に流されることをローは良しとしていない。後ろでサンジが再び小さくため息を吐いた。

穏やかだった空気にピリッと緊張が走る。しかし、そんな中でもペンギンは臆すことなくローの視線を真っ直ぐ受け止めていた。先までの砕けた気配を引っ込め、ペンギンは真摯に言う。

「おれが船長の代理として麦わらたちと話をします。おれでは力不足ですか?」

「そういう問題じゃない」

同盟を組んでの戦いである。そんな中、船長である自分がそれをほったらかして寝るような不義理をしたくないというのがローの主張だろう。クルーが作戦を放って帰ってきてしまったのもある。全て麦わらの一味に任せては面目も丸潰れだ。

それを十分理解した上で、ペンギンは言う。

「撤退してきましたが、得ている情報は十分利用価値のあるものです。同盟としての役目は全うして見せます。おれたちを信じて下さい」

「……お前らのことは信頼しているが……」

「はい。ですから、大丈夫です。当然、作戦内容も後で報告します」

ローの口がへの字に曲がる。反論の言葉が見つからないのだ。

二年前だったら「黙っておれに従え」と言ったかもしれない。でも今は、信じて任せてくれと願うクルーの言葉を振り払えない。

二度と会えないと思っていたクルー達と再開したとき、散々泣かれた。小言も大量に食らった。ワノ国で人質交換に応じた後もだ。もっと頼ってくれと、一緒に戦わせてくれと、怒りと悲しみの混じった顔で訴えられた。

別に信じていないわけでも、頼っていないわけでもなかった。これもまた、ローにとってそういう問題の話ではなかっただけだ。しかし、自分のクルーにあのような顔を幾度もさせてしまったことは、ローにとって負い目となっている。

それをわかっていて言葉を選んでいるペンギンに、ローはむっつりと口を引き結ぶしかない。

クルーへの信頼を否定する言葉など出したくない。でも、肯定する言葉を素直に出すには、ペンギンのあの穏やかで嬉しそうな、勝ち誇った笑顔が憎たらしいのだ。しかし、この場において沈黙は肯定と同義だった。

(勝負ありだな)

サンジは頬が緩みそうになるのをなんとか押し隠しつつペンギンを見る。いつも付き従っている姿ばかり見ていたから、彼のこのような姿はサンジにとって意外であった。

(やるじゃねェか。あれを黙らすなんて)

それを可能としたのは、彼らが彼らなりに互いを思ってきたからこそ成り立った絆によるものだ。見ていてこそばゆくなるような、微笑ましい光景であった。

小さく笑ってしまいそうになるのを一度下を向いて誤魔化し、サンジはペンギンに加勢する。

「まぁ、新しく作戦立てるにしても、うちの船長が作戦なんざ全部丸無視しちまうことはわかってんだろ? そんな気にするもんでもねェよ。さっさと寝ちまえ」

ローは無言でサンジを睨んだが、その際に彼の隣で両手を腰に当て「だはは」と笑うルフィの存在が視界に入り、その視線は彼へと吸い込まれる。

鋭かった目は、ルフィを見ているうちに苦々しく歪められ、やがて宿っていた眼力が失せていった。きっと脳裏にはこれまで散々ルフィに振り回された記憶が流れているのだろう。可哀想に、とサンジは心の中でそっと手を合わせる。そうしているうちに、ため息と共に肩の力も抜けていった。ぐうの音も出ないほどに、サンジの言う通りなのだ。

「しっしっし! あとはおれたちに任せとけ!」

ローはもう一度ルフィへと視線をやったあと、更にもう一度、深く深くため息を吐き、ようやく首を縦に振った。

「……悪いな、麦わら屋。ペンギン、後を任せた」

「アイアイ、キャプテン」

ペンギンは笑みを浮かべ頷く。その笑顔には最愛の船長に信頼されている喜びと誇らしさが滲んでいた。

「じゃあ、帰ろう。キャプテン」

ベポの言葉にも今度は素直に頷き、ローはかけられていた毛布をどける。

「あ、毛布いいよ。かけていって。冷えたらよくないから」

「ありがとな! チョッパー!」

ベポは礼を言いながらローを毛布ごと横抱きにして持ち上げた。ローはくったりとベポに体を預けている。やっと全てを任せて休む体勢となったローにペンギンとシャチは顔を綻ばせた。

「それじゃあ、ひとまずこれで失礼する。作戦の話は悪いが後で。先に船長の治療に入りたい」

「おう。全然いいぞ。気にすんな!」

ペンギンがベポを率いるように先に出口へと歩みだす。ベポもそれに続こうとしたとき、ぺちぺち、とローがベポの腕を軽く叩いた。ベポが動きを止めてローを覗きこめば、彼はチョッパーへと真っ直ぐ視線を向けていた。

「トニー屋。世話になった」

ローからの言葉に、チョッパーは弾かれるように顔を上げる。しかし、すぐにしょんぼりと眉を寄せて彼は俯いた。

「いや、おれ……何もできなくて」

チョッパーの後ろにあるデスクには、薬に至らなかった多くの薬剤が並んでいる。結局、不治の病とされる珀鉛病を治す薬は作れなかった。手がかりさえ得ていない状態だ。

そんなチョッパーを、ローは静かに、真っ直ぐ見続けていた。

「お前の薬のおかげで、随分楽だった。助かった」

その言葉は視線と同じくあまりに真っ直ぐで、下を向いていようとも、チョッパーの胸にすぅ、と染み込んだ。

チョッパーが再び顔を上げたときには、すでにローはベポの腕を再び叩いており、ベポは「アイアイ」と歩みを進めていた。

くたりと安心しきったようにベポに体を預けて揺れる長い脚が見える。それがドアの向こうへ消えてから、僅かに話し声が聞こえてきた。

「……ペン、粥がくいてェ」

「アイアイ。あの海鮮のやつですよね」

「ん」

「コックが今頃、船長のために最高の粥作ってますよ」

「ん……」

「疲れましたか? 眠って下さい。あなたの体力が治療の要なんですから」

子供のような、信頼しきった甘えた声。

そうして遠く消えていった雑談に、サンジは苦笑を浮かべた。

「ったく、あの野郎。おれには料理のリクエストなんてしなかったのに」

ほんの僅かに悔しさを込めて言う。しかし、今回ばかりは敵わないな、とサンジは思う。それ程までに、十三年という絆をまざまざと見せつけられた。

ほんの少し、妬けてしまう。どれだけ手を指し伸ばそうと、彼は自分たちには決してあのように甘え、頼ってはくれなかった。こんなにも違うものなのかと、ため息も吐きたくなるものだ。

それでも、珀鉛病に苛まれるローの姿を見ていた身としては、あいつらが来てくれてよかったと、心の底から思えるのだった。

ペンギンとベポがローを連れて去っていった中、シャチだけは一人この場に残り、ルフィ達と同じようにペンギンた達を見送っていた。共に行くものとばかり思っていたのでサンジは軽く小首を傾げる。シャチはペンギン達の声が聞こえなくなったところで、ルフィ達の方へと向き直った。

「騒がしくして悪かった。改めて礼を言わせてくれ。本当にありがとう」

「お互い様だろ。お前たちにはうちの船長が一度世話になってんだ。これくらい当たり前だ」

シャチは嬉しそうにはにかむと、チョッパーへと視線を向ける。

「チョッパーは珀鉛病のこと、知ってたんだろう?」

さも当たり前のように言われ、チョッパーは硬直した。シャチはどこか嬉しそうで、全面的にこちらを信頼しているように感じる。チョッパーはそれを真っ直ぐ受け止めることができなかった。

「……いや、一般的に知られている知識しか知らなかったんだ。だから……」

しょんぼりと、チョッパーは肩を下げる。

きっとシャチがこうも嬉しそうにしているのは、自分たちが珀鉛病について正しい知識を得ていたものだと思い込んでいるからだ。それ故に、ローを傷つけなかったと思って喜んでいるのだと思うと、チョッパーはいたたまれなかった。

珀鉛病のことを、何も知らなかった。そして、治療薬も作れなかった。知識も経験も、まだまだ何もかも足りなくて、結局また、無知から患者を傷つけている。涙が滲みそうなほど、悔しかった。

「おれ、トラ男のこと、傷つけてしまった」

チョッパーの喉を絞ったような苦しげな告白を聞いたシャチは、虚を衝かれたように一度固まる。その沈黙に、チョッパーは顔を上げられぬまま身を固くした。

怒るだろうか。いや、怒りはしないかも。だけど、きっと悲しませるだろう。落胆させてしまうだろう。罪悪感がずっしりと重くのしかかる。チョッパーは断罪を待つように床を見つめる。

しかし、その沈黙の中、シャチは「んー?」といつもの軽い表情で首を傾げていた。一度右へ、そして左へと傾げる。

そして、彼はニッと、笑顔を浮かべた。

「そんなことねェよ。船長はあんたに感謝してた。それも、めちゃくちゃ、な」

チョッパーがようやく顔を上げる。申し訳なさそうに上目遣いにこちらを見てくる小さな医者に、シャチは再び笑みを浮かべてみせる。

「船長が前にあの病気で苦しんでたとき、『医者にだけは言うな』って、そりゃあすげェ剣幕でおれたちに言い聞かせてたんだぜ? おれたちがそれでもって、医者を探しに行こうとしたら、外が吹雪いていようが熱が高くてふらふらしていようが、行く宛もないくせに出ていこうとしたよ」

「……」

それがどういう意味を持つのか、今や正しく察するこのとできるチョッパーは、その純粋な目に悲しみを浮かべた。その綺麗な目を見て、シャチは更に笑みを深めた。

ローとチョッパーの間に何があったのか、シャチにはわからない。しかし、ローの様子と、チョッパーのこの表情を見ていれば、一つだけ確かなことがわかる。

この医者は、珀鉛病に苦しむローが唯一信頼できた医者なのだ。

「その船長がよ、こうしてチョッパーにはおとなしく治療してもらってるんだからさ……。おれは、すげェ嬉しかったよ。それは船長も同じはずだ」

暗かったチョッパーの目に、少しずつ光が宿る。シャチの言葉はとても素直で、単純で、とてもわかりやすくて、すとんとチョッパーの胸に落ちた。

「だから、本当にありがとう。Dr.チョッパー」

「……うん!」

シャチの言葉に、チョッパーはようやく力強く頷いた。その背後ではルフィとサンジが嬉しそうに笑っている。

この数日、チョッパーはずっと自分の無力さに悩み苦しんできた。それを、仲間たちは見守ってきた。

チョッパーは無力などではない。適切な対応をできる頼もしい医者だった。仲間たちはそのことを誰より知っている。しかし、その想いは厳しい現実を前にしているチョッパーになかなか届かなかった。それを、届けられる側の人にこうして言葉にしてもらえるのは、何よりも嬉しいことだった。

「あ、それとさ」

シャチが思い出したように続ける。

「船長が言ってた薬、分けてもらっていいか?」

「あ、うん。ただの痛み止めだけど」

「チョッパーが独自に配合してるのか?」

「うん」

「へぇ! 良ければあとで聞かせてくれないか? 船長がああ言ってたんだ。よっぽど効きが良かったんだろう」

チョッパーは目をぱちくりさせる。

「そ、そうかな?」

「ん? 当たり前だよ。キャプテンは元からお世辞なんて欠片も言わねェし、こと医学に関してはめちゃくちゃ…………めっっっちゃくちゃ煩い人なんだよ。おれなんか、何回バラされたか……」

シャチの目が遠い日々を見つめている。ずっしりと疲れが表情に乗っているのを見るに、医療知識を学ぶ道程にはシャチの細切れになった体が確かに点在しているのだと伝わってくる。

それ程までに厳しい人が ──

「そんな船長が、ああも言うんだ。よっぽどいい薬だったんだろうぜ」

再び、シャチは笑った。曇りが一点もない笑顔で。

その言葉に、チョッパーは先程のローを思い浮かべる。一言一句、間違いなく思い出していく。その声色も、ずっと向けていてくれただろう真っ直ぐな視線も。

そうしていくと、体中の皮膚がむずむずするような感覚に襲われた。頬がぽっと火照る。

チョッパーは小さくぷるぷると震えると、「ほ、褒められても嬉しくなんかねェぞ! この野郎ーーー!!」と大声を上げた。すかさず、「すげェ嬉しそうだな!」とシャチからツッコミが入る。愛らしい動物へのツッコミ力はさすが、手慣れたものであった。

シャチは全力で突っ込んだ体制を直すと、再びルフィへと向き直る。

「作戦会議は一時間後でいいか?」

「おう。いつでもいいぞ」

「じゃあそれで。一時間後、甲板に全員集まっててくれ。……悪いが、作戦におれたちは参加できないと思う」

先ほどまでのおちゃらけた雰囲気を捨て、淡々と彼はそう言った。船長代理でもないシャチの言葉だが、ルフィはあっけらかんと「そっか」と答えた。「ずいぶんとあっさりだなぁ」とシャチは笑う。

「いいよ。おれたちだけでも十分だから」

「うわ、ちょっと腹立つ! それ、キャプテンにだけは言わないでくれよ。変な対抗意識抱かれると面倒だからよ」

シャチは苦笑しながらも、「悪いな」と再び口にした。

あの状況のローを置いて艦を出られるクルーなど一人もいない。なにより、船長が弱っているからこそに、艦内の人数を減らしたくなかった。これはハートの海賊団側のわがまま。そして、シャチのわがままであった。せめて服で隠せない位置の痣が消えきるまで、潜水し続けるのが良いとシャチは考えている。恐らく、ペンギンも同じ考えだろう。

ローにとって珀鉛病は、心に深く刻まれた生涯消えぬ傷である。それを敵に気取られ、再び暴かれるようなことはあってはならない。今のローの姿を敵に見せるわけにはいかない。それがシャチの考えだった。

しかし、病床のローのみならず、クルー全員が作戦に不参加などとは、さすがに船長代理という肩書を背負ったペンギンからは口に出しづらい内容だろう。故に、シャチから先に告げたのだ。

相も変わらず、気にした風もなく受け入れてくれる麦わらの一味には感謝しかなかった。

「それがいいだろうよ。ま、後のことはおれたちに任せておけ」

シャチの気持ちをある程度察しているのか、サンジからもそう告げられ、シャチは頬を緩めた。

言いたいことはそれだけだったのか、シャチは「それじゃ」とペンギンたちと同じく部屋を出ようとする。

しかし、ふと彼は扉の前で振り返った。

「あっ、あとさ」

忘れていたことを思い出したように、あっけらかんとシャチは言う。しかし、その声色とは打って変わって、彼の周囲の温度が突如下がった。

常ににこやかで取っつきやすい空気を出していた彼が、一気に冷たく、触るものをすべて傷つけるような鋭利な刃物に変わっていくのを、チョッパーは唖然と見ていた。

「その例の、ワズワズの実の能力者。もらってくから」

シャチは伺いたてることもなく、決定事項のようにそう言った。口元は笑みの形をとっている。だというのに、笑っているように見えない。

チョッパーは思わず硬直する。どろりと漏れるその殺気は、自分たちに向けられているものではない。きっと彼はその殺意を抑えようとしているだろう。それでも漏れ出るそれに、彼の怒りの度合いが見て取れた。同時に、あの能力者の行く末も見えてしまった。

「おう、いいぞー。いらねェしな」

その空気を物ともせずに言ってのけたのはルフィだ。シャチは未だ殺気を纏いながら機嫌よさそうに笑うと、「アイアイ。じゃあ、またあとでな」と告げて部屋を出て行った。

パタンとドアが閉じられ、チョッパーはようやく息苦しさから開放される。あんなに気さくな奴だったのに。さっきまでめっちゃ笑ってたのに。あいつ、めっちゃ怒ってた。めっちゃ怖かった。

「はー……あいつら、陽気なやつらだと思ってたが……」

ペタンと座り込んだチョッパーの後ろでサンジが言う。

「やっぱ海賊だな」

笑うジョリーロジャーの背を思い浮かべながら、チョッパーはこくんこくんと頷いた。

 

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Comment

  1. 内緒 より:

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