ジューダスを怒らせたかっただけ
ハロルドはうっとりと笑みを浮かべて窓から空を見ていた。
彼女は天地戦争の終わりが見え、研究への張り合いが無くなるかもしれないと危惧していた。終戦後もこの頭脳を生かす場はごまんとあるが、天上王を打ち負かすなんて心の躍るシチュエーションはない。
だが勝利と同時に今度現れたのは神様と来た。己の才能と運の強さに、にやけた笑みも浮かべたくなるというものだ。
そして共に旅している仲間がこれまた面白い。
千年後とその更に十年後の世界に生きている人間。聖女とその英雄、付き人の兄貴分な男とそれを関節技で締め上げる女。神に挑む者達だ。
だが、その中で一番ハロルドの目を惹きつけながら、純粋に楽しみを与えてくれない者がいた。
見慣れぬ青い空などすぐ興味を失い、ハロルドは姿勢を変えて宿の二階の窓から町の通路を見下ろす。
そこには細い体を隠すような真っ黒な衣装、一際目立つ異様な仮面をつけた少年。
ハロルドは窓際に肘を着き、手を組んでその上に顎を乗せ、宿の前にいる少年を眺める。
彼は珍しく町の者達に囲まれていた。しかも女性ばかりにだ。
それをひらりと躱して宿の中に黒衣が入り込む。宿にまで押し入ろうとしていた女達は宿の主人に断られて渋々解散しようとしている。そこに現れたのはロニ。先の顛末が完全に予想が付いたのだろう、ハロルドはそれ以上興味が無くなり窓から体を離す。ハロルドの座る椅子の横には小さなテーブル。その上に置かれた本を、ハロルドは大雑把に引き出しに放り込む。
そして今度は部屋の扉の方へと目を向けた。
扉が音を立てて開かれ、そこから先程の少年、ジューダスが現れた。
「おかえり~♪ハーレム状態ね」
仮面の奥から険しい視線が突き刺さる。背筋を逆撫でされるようなゾクゾクと寒気の走る。その眼光の威力はハロルドにとって快感だった。そう体験できないものを目にしてハロルドは喜ぶ。
「あんたいい目できるわねー。それで女性の心もキャッチ?ロニをモテモテ男に改造する薬を作るのに使えるかもしれないわ」
はぁ、とジューダスは深いため息を吐き、今度は恨めしそうにハロルドに一瞥を送った後、部屋の椅子に腰掛ける。こうもジューダスがハロルドを恨むには理由がある。
そもそも街中でジューダスにあのように声をかける女性など今までそう居なかった。良く見れば仮面の隙間からもその綺麗な顔を見ることはできるのだが、否が応でも先に不気味な骨の仮面が目に付いて離れていく者が殆どだ。
この町の人々も同じだった。
ジューダスの仮面を遠めから奇異な目で見ているだけだった。ジューダスは慣れきっているのだろう、一切気にせず歩いていた。仲間も同じく慣れて気にしていない。ただ一人、ハロルドだけが1000年後の時代に来て初めての町に色々と好奇心の目を向け、それがジューダスの仮面にまで及んだ。
何でこいつ仮面被ってるんだろう
それは出会った当初からの疑問だった。それが町の人たちの視線を見ていて爆発した。いつか理由を探ろうと企んでいた”いつか”がハロルドの中で今に確定されたのだ。
町の人たちの視線が集まっている中でハロルドはことに及んだのである。
それは警戒心の塊であるジューダスを出し抜く神業だった。
ジューダスの回避パターンをある程度記憶していたハロルドは見事にその知識を活かし、下から上へスポンと音が立ちそうなほど綺麗にジューダスから仮面を剥いだのである。
0.5秒程、その場に居た者たちの体感時計が止まった。
ハロルドも同じくである。中から出てきたのは思わず見とれるほどの美顔。普段の警戒から不穏な雰囲気しか感じ取れないジューダスが驚きという隙を晒していたのも大きい。大きく見開かれた紫紺の瞳が真っ直ぐ太陽の下に晒され、皆の視線を惹きつけて止まなかった。
「オホホー!へぇ、こんな顔して……」
更なる好奇心と思わぬ発見に目を輝かせたハロルドの手から素早く仮面が奪われる。と、同時にジューダスはハロルドの頭に拳骨を落とした。多少の手加減はされていたようだが、女性相手とすると少々強いそれにハロルドは頭を抱えて笑う。
「あいたたた……あら?」
だが、その後更に降りかかると思われた小言のパレードは来ず、ジューダスは仮面をさっさと被るとそっぽを向いて宿の方へと歩みを進めた。その背中にハロルドは漠然と拒絶を感じた。
「ハ、ハロルド……今のはちょっと……」
リアラが躊躇いがちに批難するのを耳にしつつ、ハロルドは黒いマントの靡く様をじっと見つめる。好奇心の元、あらゆる研究に犠牲を費やしたハロルドに先の事で罪悪感はない。ジューダスの反応を見て、仮面をつけている理由について考察を巡らせ、更なる好奇心の渦に吸い込まれている。
そんな中、少しずつ町の中がざわめき始めた。
主に女性を中心にして、友人同士最初はこちらに聞こえないように耳打ち。話しているうちにテンションがあがりそれは普通の話し声となり、更に大きくなって他の者たちをも巻き込んで噂の火が上がった。
「ねぇ、今の見た?すっごい綺麗な顔!」
「一瞬だったけど確かに見た。綺麗な人だったよね!」
瞬く間に煙は広がり、町の女性たちは仮面の下に綺麗な顔を隠す少年の虜となったのだった。
隠してあるものは見たくなる。その中が至高のお宝なのであれば尚更。意味深な仮面と漆黒の衣装が火に油を注いでいた。
かくしてジューダスは町の女性に追われる身となった。
ロニであれば手放しで喜ぶだろう状況を、ジューダスは心底嫌がっている。その様がおかしくてハロルドは力なく笑った。欲の無い人間だ、と。
ハロルドのことを無視する事に決めたらしいジューダスは何処から持ってきたのか本を開いて読んでいる。
「それ、面白い?」
「……別に」
「でしょうね」
ジューダスは暇つぶしに文字を目で追っているだけだ。ハロルドは自分のすぐ隣にある机の引き出しに目を向ける。中にはジューダスが部屋に戻ってきたと同時に仕舞った本がある。
ハロルドは視線をジューダスへと戻した。時にページを捲り、後は目が若干動くだけというその姿は精巧な人形のようだ。感情も何も感じ取れないその姿にハロルドは直ぐに飽きてしまった。
仮面を被り続ける理由。ハロルドの胸をときめかせたその好奇心は、たった一冊の本で全て解決した。
神の眼を巡る騒乱、四英雄と裏切り者、シャルティエ
実際にその騒乱の最後を僅かとはいえ見たハロルドは回答欄に書くべき内容を簡単に割り出した。
ジューダス、イコール、リオン・マグナス
パラリ、またページが捲られれば一切動かないその姿。死んでいるみたいだと前から思っていたが本当に死人だったとは。ハロルドは冷えた目でジューダスを一瞥すると、窓へと視線を向け体の向きも変えて完全にジューダスに背を向けた。
欲の無い人間など死んでいるのと同じ。ハロルドはそう考える。
そして死人は変わらない。輝きも持っていない。一度そのデータを調べたらそれで尽きてしまう。面白くない。移り変わる空模様をこうして眺めている方がまだ面白みがあるというものだ。
せっかく綺麗な顔をしているのにもったいない。
その顔と同時に欲すら押し隠す戒めの仮面をハロルドは恨んだ。
そう時間が経たずして部屋の外が騒がしくなり始めた。
「チックショー、何でだよ!俺だってイケてると思うんだけどなぁ。確かによぅ、そりゃ綺麗系じゃあねえけど頼れるお兄さんじゃねえか」
「何が頼れるお兄さんだい。ナンパ連発してる軽い男に頼りがいを見出せって方が無理だろう」
「あはは、ロニ集まってきた人全員から断られるとか凄いね」
「笑い事じゃねぇ!」
ハロルドの予想通り、ロニはジューダスを目的に集まった女性達を口説き倒して見事に振られたようだ。
ロニの不貞腐れた顔がジューダスへと向けられる。彼は未だに全く同じ姿で本を読んでいた。
「ったく、こんな仮面野郎の何がいいんだかねぇ……俺のが大人の色気ってものがだな……」
「卑猥物として認定されたんじゃないか?」
そのままの姿でジューダスは軽口を返した。相変わらず字を目で追うのは変わらないが、既に意識は仲間たちの方に向いているだろう。
「誰が卑猥物だ!俺の魅力を何だと思ってやがる!」
「ほぅ、欠点じゃなかったのかそれは」
「ぐおっ!?」
ロニがオーバーアクションをつけて仰け反るのをジューダスは僅かに首を動かし横目で確認する。仮面の影になっている口元に捻くれた笑みが浮かんでいたのを向き直ったハロルドだけが捉えた。
(こうしていると、普通の人間なのに)
仲間と共にいる時はジューダスへの死人のイメージはすぅっと引いていく。押し隠されているものが滲み出ると言った方が的確か。それでもハロルドの表情は晴れない。
いつまでも被り続けている骨の仮面が全てを物語っていた。仲間の中にいるときでも、ふとした時に滲み出ていたそれが押し殺される姿をハロルドは何度も見た。
特に旅の目的に関しない世界や町の事へと話題が向いた時、彼は一気に傍観者へと変わる。ハロルドのように好奇心を擽られ自分からそれに触れに行こうとは決してしない。
例えば町の人が困っているのを見過ごせず、カイルが自らそれに巻き込まれた時。ジューダスは一人で容易に解決する技量があるにも関わらず、カイルのフォローしかしない。カイルを導き、時には誰にも気づかれないように裏で動くのみ。表の舞台には絶対に上がってこない。
先の見えない茂みを手探りで掻き分けて歩く。そうやって困難な茂みを踏み潰して道を作る。それが歴史となり己の生きた証となる。どれだけ草木に肌を傷つけられようと、それが生き甲斐であり何よりも輝いている。それがハロルドの考えだ。だからあの時、カイルの未来からの言葉を遮った。
神に刃向かう仲間たちは皆同じ想いのはずだ。――ジューダスも同じのはずだ。
だと言うのに彼はそれらを実行していない。先の見えない茂みの中、そっとカイル達の前を照らして誘導し彼らに軌跡を作らせる。己で足跡をつけない。
何より彼には見えてしまっているのだ。本来見えないはずの先が。
この世界でどこまでも矛盾を持って生きている人間だこと、その歩み方はきっと苦しいだろうに
ハロルドは僅かばかりの同情を以って考察を終えた。既に終わりを迎えている研究を放り投げるように。後味の悪さだけがハロルドに残る。
(あーあ、つまんないの)
「ハロルド、どうしたの?」
「べっつに~」
壮大にため息を吐いたハロルドを見てリアラが声をかけるが、ハロルドは姿勢を崩し椅子の背もたれに顎を乗せて呆けて見せた。
ガタン、と大きな音が立ち、ハロルドとリアラが自然とそちらへ視線を向ける。ロニがジューダスの腕を無理やり引っ張り立ち上がらせたところだった。
「おい、僕を巻き込むな」
「いいじゃねえかよ、ちょっとくらいよ」
「ナンパくらい一人で出来ないのか貴様は」
「俺はあれなんだよ、出会いがわざとらし過ぎるからいけねぇんだな、きっと。だから自然な出会い、あっちから近づいてもらえばいいんだよ。で、偶然居合わせた俺のほうにお嬢さんは目が眩む。どうよ?」
「どうよ、じゃない!僕を巻き込むなと言っているだろう!」
ロニは青筋を立てて怒るジューダスをお構いなしに引きずるように部屋を出る。よほどこのプランが気に入ったようだ。
カイルとナナリーが顔を見合わせ、軽く噴出しながら面白そうと声を掛け合い二人の後を追い始める。
「ハロルドとリアラも一緒に行こうよ」
「行く行く!」
「そうね~」
ロニをモテモテに改造する計画のほうに着手するか、とハロルドは腰を上げた。
ハロルドが宿から出たときには既にロニとジューダスは女性に囲まれていた。どこで出待ちしていたのやら、黄色い歓声が上がっている。ジューダスだけが一人通夜でもしているかのように肩が下がっている状況だ。
ロニはニヤニヤしながらジューダスを出汁に声をかけてくる女性と応対している。これからどこか皆で食事にでも、なんてちゃっかり漕ぎ着け始めたところで突如場に不釣り合いな声が轟いた。
「おいおい、てめぇらこの町の人間でもねぇのに何好き放題してやがんだよ」
女性の短い悲鳴の後、彼女らを押しのけガタイのいい男たちが5人現れた。
不穏な空気が流れる中、ジューダスはほんの僅かに目を細めただけで完全にシカトを決め込んだ。ロニは余裕な表情を浮かべて彼らと対峙する。
「お~?なぁに兄ちゃん達、俺はそういう趣味はないから悪いけど帰ってくれる?」
「なめてんのかてめぇ!!」
「いやぁ~嫉妬させちまって悪いねぇ俺の色気は罪なもんで」
「馬鹿かお前。お前なんか眼中にねぇんだよ、それよりそっちのヤサ男だ。気味わりぃ仮面被って何してんだあ、あぁ?」
突如現れた男たちの態度が気に食わないのだろう。後ろで指を鳴らしていたナナリーだが、ロニへの酷い扱いに思わず噴出した。それはロニだと面倒に発展する可能性もあるがジューダスならば簡単に往なすだろう安心もあってだ。
町の女性たちはすっかり安全な場所まで避難して様子を伺っている。
そして当のジューダスはというと、
「元はと言えばお前が起こした問題だ。お前が何とかしろ」
と小声でロニに言い残し、身を眩ませようと一人宿とは別方向に歩みを向けているところだった。
「てめ、何シカトこいてんだよ!なめやがって」
「怖気づいて逃げんのか?その不気味な仮面の下にいい面持ってるんじゃねえのかよ?俺たちにも見せてみ?ん?」
「ま、どんな面だろうとすぐにボコボコにしてやっけどな」
ゲラゲラゲラと下品な笑い声を上げる男達。絵に描いたようなごろつきの様にハロルドは呆れ返った。ロニが彼らを煽るように笑い声を上げる。
「やめとけやめとけ、こいつ手加減知らねぇからよ。手出したら剣抜かれても何も言えねぇぜ?」
「は?剣が何だ、こちとら荒事には慣れてんだよ」
「そりゃいらねぇ心配デシタ」
ロニが笑いを堪えながら言う。その間もジューダスは歩みを進めていた。男達が舌打ちをして回り込む。
「おいコラ、なめた態度とりやがって覚悟しろよ」
男がジューダスの細い肩に手をかけようとしたが、ジューダスはそれを最小限の動きで避けた。そのまま男の横を通ろうと一歩横に足を出したときだ。金色の物体が石造りの道路にキン、と音を立てて落ちた。
ロニ改造研究のモデルにジューダスを、と彼を見ていたハロルドの目が変わる。ジューダスの表情の変化に瞬時に反応した。それはハロルドが初めてみるジューダスの顔だった。目が丸くなり表情に焦りが入る。
細長い金色のイヤリング。それは男の足元に落ちている。ジューダスが手を伸ばす前に、男がそれを踏みつけた。
「へぇ、よさそうなもん持ってんじゃねぇか」
焦りからなのか、どこかジューダスの動きにいつものキレがない。よほど大切な物なのか。あのジューダスが?ハロルドの好奇心がふつふつと膨らむ。その光景に惹きつけられ瞬きもしない。
ジューダスが屈みかけた体勢を立て直す前に男の足が僅かに動く。石と石の間の僅かな隙間にイヤリングを滑らせた。梃子を使うつもりなのだ。男は巨体、体重は十分ある。にやりと男が笑う。
パキンと、小さな音がした。
ハロルドはゾクゾクゾク、と背筋を這い上がる寒気に小さく飛び上がった。それでも目の前の光景から決して視線を外さない。
突然黒い線が横へと引かれる。同時にイヤリングを踏みつけていた男は後ろへ僅かに吹き飛ばされドスンと音を立てて尻餅をつく。残りの男どもは何が起きたのか理解できずその場に突っ立っているだけだ。
男が倒れたことでイヤリングが現れた。
……割れている。
思わずハロルドは自分の短剣を握った。敵が現れたわけじゃない。無意識にそうしてしまう程の殺気が湧き上がったのだ。
その持ち主はやはりジューダスで、驚くことに彼は何の躊躇いもなく剣を抜いた。これにはカイル達も目を丸くした。
「ちょ、ジューダス!?落ち着いてっ」
「おいおい!マジかよ!」
脅しでも牽制でもなく、本気で斬りにかかろうとしているのが伝わってくるのにロニも大慌てでジューダスを止めるべく手を伸ばす。だが、その前に風を切る音を立てて剣が横に振られた。
それは男の目の前ギリギリを通り、前髪だけをスパッと切った。ほんの少し、ロニがジューダスの腕を引っ張るのが遅ければ、男は二度と光を見ることが叶わなくなっていただろう。
何処からともなく悲鳴が上がる。
ハロルドは震え上がった。心の底から湧き上がる好奇心と喜びに目を輝かせている。
このジューダスは生きている。今まで見てきた中で一番人間らしい。世界に興味を持たない死人のような彼とは大違いだ。
ハロルドからは後姿しか見えないが、きっとあの男はハロルドが部屋で見た時よりも何倍も鋭く絶対零度に冷え切った綺麗な瞳を見ていることだろう。その中に怒りの炎が燻っている様はこれまでのギャップを兼ね合わせどれだけ美しく見えることか。
あのジューダスが我を忘れるほどに怒るとは、あのイヤリングは一体何なのだろうか。
彼女の好奇心はどんどんと広がり加速していく。
ジューダスが次に剣を振る前にロニが小さな体を羽交い絞めにした。体格差は相当あるというのにロニが僅かに前に引っ張られる。邪魔するロニすら眼中になく、ジューダスはただイヤリングを踏み潰した男をじっと見下ろしているようだった。
まだ若く細い少年の醸し出す異常な空気に、残りの男たちは声を引き攣らせながら1歩、また1歩と後ろへ下がった。
ジューダスが己より遥か頭上を通り越す力量の持ち主であるとわかるどころか、その逆鱗にまで触れ本気で報復を受けるかもしれないとようやく気づいた彼らの顔は真っ青だ。
だが、ロニたちにはそれを様は無いと嘲笑う程の余裕を今持ち合わせていない。
誰に何も言われない静寂の中、男たちはイヤリングを踏んだ仲間を残して逃げ去った。
それを冷や汗を垂らしながらロニが見送る。早く目の前の男にも逃げて欲しいと思ったのだろう、そのまま彼はジューダスの肩越しに目の前の男へと目を向けるが、男はジューダスの方を見たままガクガクと震えるのみだ。このまま気絶するのではないかと言うほど恐怖に縛られている。
ハロルドの口角がにやりと曲がり持ち上がる。この場に留まった男が今後どうなるのかが楽しみなのだ。さぁ、早く続きを!と仕舞い忘れた短剣を握る手に汗を浮かべている。
だが、
「ロニ、もういい」
ハロルドの興奮は水をぴしゃりとかけられたように一気に冷えた。
先ほどまでの様子から想像できない静かな声で話しかけたジューダスをロニは訝しげに見る。
「これでは剣も収められん」
ジューダスは捕まえられた両手を僅かに動かしてロニに言う。剣を握る手に力は込められておらず、腕の動きと共にぶらりと揺れたそれはすぐ落ちてしまいそうだ。ロニはゆっくりジューダスから離れた。
ジューダスは言葉通り剣を収める。
先ほどまで他に何も見えないと言わんかのごとく男を見ていたはずなのに、今は反対に眼中に無いようで男に目を向けていない。
代わりに壊れたイヤリングを見下ろしていた。あれだけ暴れたのだからそれは彼にとって大事な物のはずだ。なのにイヤリングに向ける視線は冷たい。その横顔からハロルドは僅かに葛藤を感じ取った。だがジューダスはそれを押し殺す。ハロルドはそう予測する。そしてそれは違わず、ジューダスはイヤリングを拾おうともせず背を向けてしまった。
今度は宿の方へ、ハロルド達のいる方へと歩き出したジューダス。横切られたカイルは慌てて追いつきながらジューダスに問い掛ける。
「ジューダス?これ……」
「もういい」
ジューダスの背後でカイルがイヤリングを指差すが、それすら見ずに彼は歩みを進める。
ハロルドが真正面から見たジューダスの表情はやはりいつもと変わらないものだった。いつだって、全てを諦めている少年。あぁ、もったいない、つまらない。再びハロルドの胸中に憂鬱が詰め込まれる。
カイルも納得できないのだろう。ジューダスに食い下がった。
「なんだったの?あのイヤリング、……大切なものなんだよね?」
「…………」
「ジューダス!」
最初は遠慮がちに聞いたカイルだが、沈黙で返された時には声を荒げる。このままじゃ納得しないというカイルの意思表示にジューダスはため息を吐いた。同時に歩みが遅くなり、彼は口を開いた。
「……母の、形見なんだ」
振り向くこともせずに呟かれたジューダスの言葉にカイルは目を瞠る。
カイルに着いて歩いていたロニが眉を寄せる。
「おいおい、だったらもういいなんてことないだろ」
「いいんだ」
ジューダスは首をゆっくり横に振る。
「母は僕を生んで直ぐに亡くなった。思い出など一つとてない。……それに」
仮面の下の表情がどんどん殺されていくその様に、ハロルドはジューダスから目を逸らした。
解答はもう出している。なのに答え合わせをしたくない。それはこの答えに納得していないからだ。
「僕ももう、死んでいるんだ」
ハロルドは不貞腐れ、下唇を突き出して頬を膨らませた。
つまらない。本当につまらない。何より気に食わない。先の見えない世界をめちゃくちゃに足掻いて生きるのが楽しい。皆平等に与えられる権利だ。だけど彼にはそれがない。あったとしても実行しない。そうならざるを得ない理由を知っていて改善もできない。だって彼女は神を殺しに来たのだから。
バキィ!!!
突如とてもいい音が鳴った。
ジューダスが驚いて振り返る。ハロルドは視界の隅で音の根源を見ていたので不意を突かれたような驚きはないが、それでも先程の不貞腐れ顔が飛んでいく程いい音だった。
音を出したのはカイル。ちなみに楽器と化したのは今や完全に伸びているあの愚かな男だ。
カイルはイヤリングが母の形見と聞いた途端くるりと振り返った。視線の先にはジューダスが離れたことでようやく動き始めた男。カイルは一目散に男の下へと行き、その勢いのまま男の顔を殴りつけたのだ。
当然、ジューダスが「もういい」と言った理由なんて聞いてない。
紫紺の瞳がパチパチと大きく瞬かれる。鳩が豆鉄砲食らったような顔にハロルドは噴出しそうになった。
カイルは壊れたイヤリングを拾うと、またジューダスの元へと駆け寄る。
「はい!だめだよジューダス、大切なものなんだから」
きっと断腸の思いで切り捨てただろうそれが、数分もしないうちに目の前に差し出されている。ジューダスは唖然と目の前の金色の欠片を見ている。ハロルドは顔が半分にやけているのを必死に手で隠すが、隠しきれていない。
ジューダスが、そしてハロルドが必死になって諦めたそれをカイルは無邪気に拾い上げる。ここまで爽快にやられては形無しも通り越して笑い話だ。
一向にイヤリングを受け取ってくれないジューダスにカイルは首を傾げた。だがすぐに「閃いた」と顔に書いたような表情を浮かべ、ロニへと視線を向ける。
「ねぇ、この辺に修理してくれるところあるかな?」
受け取らない訳を勝手に解釈したカイルにハロルドは完全に噴出した。
ジューダスの言葉に軽くお通夜状態だった仲間達も徐々に表情が明るくなり笑い出す。彼らに遅れてジューダスが頭を垂れながら深く息を吐いた。仮面で隠されてしまったが、ハロルドは彼もまた笑っていると直感する。
顔を上げたジューダスの表情が晴れやかなのは、ハロルドと同じ気持ちを抱いたからに違いない。
「カイル、構わない」
「え、でも……」
カイルが顔を顰めて反論しようとするが、その前にジューダスはカイルの手からイヤリングを拾い上げた。己の手のひらで壊れたイヤリングを暫く眺めた後、完全に手の中に収める。
目を瞑りまた深く息を吐くジューダスの一挙一動を仲間達は静かに見つめる。やがて再び開かれた瞳はカイルへと向けられ、そして
「ありがとう」
ふわりと効果音をつけてしまいそうな程に、彼は優しく穏やかに微笑んだ。花も恥らうとはこのことだ。完全に自分のペースに持ち込んでいたはずのカイルすら固まって目をまんまるにしている。
ハロルドの心臓がドクンと大きく高鳴った。
なんてことだろう。今までうだうだ考えていた天才であるはずの自分を罵ってしまう程の現実。
生きている。こいつは間違いなく生きている。何てとんでもない生き物だろうかコレは
ジューダスは再び背を向けて宿の方へと歩き出した。
それから3秒程経ってからカイルは我に返り急いでジューダスを追いかける。
「ジュ、ジューダス待って!い、今のもう一回!!」
「何がもう一回だ。さっさと宿に戻るぞ」
「ジューダス!もっかい、もっかい!!お願いっ!」
じゃれてくるカイルに呆れ顔のジューダス。いつもと変わらない姿。
置いてかれたロニとナナリーとリアラが顔を見合わせ笑う。そして彼らの後へと続いていく。
ハロルドは再び己の運の良さに笑みを浮かべた。
やはり付いていくことになったこの仲間達は面白い。最高だ。
この仲間達がいればできる。カイルはいとも簡単にジューダスのあの表情を引き出したのだ。できるに決まっている。神を殺し、あの死人気取りの子供を草むらの中に引きずり込む事ができるはずだ。
あんな輝きを見せられて諦められるわけがない。諦めるなんてありえない。
「ハロルドー!明日からの旅のこと決めるんだって。一度部屋に戻るよー!」
宿の扉からカイルが顔をひょこりと出してハロルドを呼ぶ。ハロルドはスキップし、グフフフと特有の笑いを浮かべながら宿へと向かった。
見てなさい、私は神を超えてみせるんだから!
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