古都ダリルシェイド

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首都ダリルシェイドの続きで現代でのできごと

思わず、自嘲の笑みが零れる。

 

18年前の世界から戻り、あれから慌しく聖女を追い、そしてまたこの時代に戻ってきた。

この世界の時計が刻んだ時間は僅か数時間。だが、実際には五日間の旅を体感している。

 

聖女の真実は過酷な現実を残した後、一時の猶予を与えた。

迷うカイルは最後にクレスタへと赴き、そして、二人は出会いの地へと向った。

 

残された仲間達は必然的に自由行動となった。

突然手にした自由な時間。それは生き帰されたその時と同じで、ただその広大さに最初は唖然と立ち尽くすしかなかった。生前ですら自由な時間は少なかったというのに、死後にこのような時間を突然与えられて、一体どうしろというのか

18年も、経ってしまったのに

 

自由とは名ばかりだった。

だが、目的もなく歩みを進めていれば、やはり、辿り着いたのはこの地だった。

前にこうして来た時も、現実と流れた時間を見せ付けられたというのに、どうにも懲りていないらしい。

それとも、手違いで20年前のダリルシェイドに行ってしまったせいだろうか

再び、此処に戻ってきてしまうのは

 

瓦礫の山と化した、首都ダリルシェイド

冷たい雨は惨劇を洗い流すことなく、ただ追い討ちのように街を冷え切った死の温度へと変えていく。

昔、確かに感じた暖かさは、欠片も残ってなど居なかった。

ふわりとした、素朴ながらも見るものの胸に温もりを落とす笑みは、どこにもない。

瓦礫の麓には、ゴミのように座り込んでいる町民。

気力を無くし、過去に縋り、現在に呪いの言葉を投げかけていた。

 

数日前に自分が訪れたのは、20年前の世界。

再びこの地に訪れて、何が在るというわけでもないのに

 

冷たく薄暗い街中を目的なく歩いているはずなのに、勝手に足は帰るべき場所だった所へ向う。そんな自分を嘲笑うのも、もう飽きてしまった。

ただ、全てが壊れたこの街を無表情に歩くのみ。

 

「ごめんなさいね、今日はもうこれだけなの」

 

やがて、知らない人間の声と共に、見慣れた風景の残骸が現れる。

元々、オベロン社の社長であるヒューゴの屋敷だったそこ

己の、帰る場所だった場所。

 

教会と化したそこは、知らない人間達で埋められている。

玄関前では食事の配給がされていた。

初老の男が硬いパンと少量のスープを手に項垂れる。

 

「これじゃ……足りない。子供がいるんだ……」

「……………」

 

配給をしている神団関係者は眼をそらすことしかできないようだ。

ふと、少し右横の方で人の動く気配がし、そちらに眼だけを向ける。

 

「日に日に食料の配給が減っていく。……この街はもう終わりだ」

 

薄暗い街に溶け込んだような、薄汚れた格好をした男が、ぽつりとそう呟いた。

そういえば、ここの取り締まりは配給品の横流しをしていたな。とはいえ、これから消えていく身では、今更どうしようもないが

 

恐らく、早くて明日。神との決着がつくだろう

それは、自分の消滅の日となる。

もしカイルが戦うことをやめたとしても、カイルには悪いが一人ででも神を殺しに行くつもりだ。とは言ったものの、カイルが戦う道を選ぶということを、自分は確信しているが

 

配給を受けていた男が、見るからに消沈しながら教会を離れていく。

男の呟きは雨の音しか聞こえぬ街に嫌に響いた。

 

「畜生……なんで、なんでこうなった………」

 

町の住民は男に眼を向けることこそしていないが、同じように項垂れる。

誰もが、そう思っているのだろう。

 

「あいつらが、あいつらさえ居なければ………ヒューゴとリオンさえ居なければ!」

 

男が唇を噛み、貧相な食料を持つ手を振るわせる。

隣に座り込んでいる男もまた、彼の言葉に拳を握り締めた。

 

「畜生、畜生、ふざけやがって……何であんな奴らがこの世に生まれちまったんだ!!」

 

男の声は何時しか呟きから雨の音に負けること無い怒鳴り声と変わり、ありったけの声で現状への不満を投げつけ、逃げるように走り去った。

やがて、また街は雨の音だけに包まれる。

立ち止まった自分の足は、何でもなかったかのように再び動き出した。

 

一連の様を全て見ていたというのに、罵詈雑言が己の名に向けて投げられたというのに、自分の心は一つも動かなかった。

正直、聞き慣れたというのもある。それに、それが当たり前のことだと自分でも思っているから。

 

自分の本質を他者に見てもらいたいなどという願望は、既に生前の時に捨てている。

まだ幼かった頃、世界は狭かった。その狭い世界に否定を繰り返された。だから、僕もまた、世界を否定した。成長していくにつれ、その世界が広がっていることにも気付かずに

だから、この結果は当然なのだ。

 

彼らが呼ぶリオンの名に、自分の本当の姿は一欠けら程しか入っていないだろう。

だというのに、世界から否定され、押し潰されていくのは、本当は、少し怖い。

何処にも自分が存在しない。

彼らが呼ぶリオンの名は、結局は虚像でしかない。だが、この世界ではその虚像が全てなのだ。真に自分の全てを否定されているようだった。

 

きっと、彼女が居なければ、耐えられなかっただろう。

本当は、違うんだと、泣き叫んでいたかもしれない。

死すれば、それすらできないのだ。

このまま、消えていくのは、怖い。

 

街の薄暗さに釣られるように、心が深く埋もれていく。

だが、やがて辿りついた場所で、首を強く振り、それから逃れた。

 

大丈夫、ちゃんと、残っているはずだから。

 

辿りついたのは、教会の裏へと回った場所。

瓦礫でほとんどが埋もれてしまっているが、そこは以前、芝生が敷かれ切り添えられた草木と僅かながらも可憐な花を咲かす花壇があった。

ほんの五日前に、彼女と会った場所。

今はもう、彼女にはとても不似合いな風景となってしまったこの場所だが、確かに、ほんの少し前に来た時、彼女は此処で笑っていた。

 

そこから、空を眺めれば、雨が顔に容赦なく降り注いだ。

眼に入ってくる雨で視界が揺らぐが、元より自分が見ているのは、見たいと思っているのは、空などではないので、関係ないと仰ぎ見続けた。

 

(貴女は、今、幸せですか?)

 

(どこかで、幸せに生きてくれているでしょうか)

 

生前、最後に見た彼女は、泣いていた。

心優しい彼女のことだ。己のせいで死なせてしまったと思い、胸を痛めていただろう

18年の月日が、それらを全て忘れさせてくれていると良い。

僕が笑うと幸せになれる。そう言ってくれた貴女を、もう己の手で幸せにすることができない。

 

彼女が僕にくれた笑顔は、大きな幸せとなった。

もう、その笑顔が自分に向けられることはない。

だが、それでも、たとえ他者に向けるものでも、

貴女が笑っていてくれるならば、それだけで、きっと、幸せだ。

 

だって、それが

僕が生きていた証になる。

 

どれだけ世界の全ての人から罵られようとも、否定されようとも、殺されようとも

彼女が生きている。ただそれだけで、僕が生きていた証になる。

 

多くの人に恨まれ、自分のこの一生が無ければ良かったのだと、呟かれようとも

傲慢な僕は、ただ、貴女が生きているだけで、あの生に誇りを持てるから

 

誰もが、リオンという名を聞くだけで、それを抹消させたいと祈願しても

本当の己の姿を知る人など、誰一人いなくなったとしても

貴女自身も、僕のことを忘れてしまったとしても

 

貴女が幸せで生きているならば

それだけで

 

しとしとと降り注ぐ冷たい雨の中では、思い出す彼女の顔は微笑むことなく、別れの時に流した涙を延々と零している。

明日、消えるのだろう。そう思った瞬間、心の中に湧き上がった不安は、間違いなくこのことだろう。ずっと、これだけが心残りだった

 

お願い。もう、僕は大丈夫だから、だから、

貴女にとってきっと、辛い記憶となるだろう僕のことは、忘れてくれて、いいから

どうか、幸せでいてほしい。

 

たとえ、貴女が覚えていてくれなくても、貴女が幸せならば、僕は、幸せだから

笑えなくなるくらいならば、どうか

 

忘れて、微笑んで

目的は果たした。後は家へと帰るだけだというのに、勝手に足はまたあの場所へと向かった。そんな自分を嘲笑うのも、もう飽きてしまった。

本当に……クレスタへと行く前に寄ったばかりなのに。僅か数時間。何が変わるわけでもないのに………私は余程この地に未練を残しているみたい。

 

だって、ずっと待っていたかったの。本当はずっとこの場所で、貴方を待ち続けたかった。

だけど、この場所は教会になるのだと。被災者達の為のものになるのだと

そう言われてしまえば、私は黙り込むことしかできなかった。

だけど、そんなことより、なによりも

その時は知らなかったはずの、貴方の願い。それを、強く感じた気がしたの

 

幸せになって、と

 

貴方のお姉さんにも言われたわ。「あいつは、あんたをそんな風にする為にあんたを護ったわけじゃない。絶対違う!」って私よっぽど酷い顔してたのね。

……私は、本当に、今でも、貴方に護られている。

だから、私はこの街を出たわ。でもね、違うのよ?

貴方が思っているようなことには、なってないよ。

貴方は本当に、極端なんだから。もっと、欲張ってもいいのにね。

 

いつの間にか、雨は風と共に強くなり、バケツをひっくり返したようなものになった。

配給も終わったのか、そそくさと外に出ていた人々が壊れかけた建物へと入っていく気配がする。

 

あぁ、できることならば消える前に、一目でいい、貴女の生きている姿が見たかった。

でも、もういい。

信じている。シャルティエから既に聞いていた。

彼女は、ちゃんと英雄達が助け出し、地上に戻ったと。

あいつらを信じてやるのは癪だが、それでも、彼らなら、マリアンを護ってくれただろう。

 

だから、もう、大丈夫

会えなくてもいい。話せなくてもいい。

もう、十分だ。そうだろう?

 

自分に、そう無理やり言い聞かせた。

全て、もう終わったこと。死人は蘇らない。時は帰ってこない。

過去に縋っていては、幸せになどなれない。

 

最期の決別をしよう。

神の気まぐれで、狂ってしまったから

ちゃんと、もう一度

 

目を瞑れば、直ぐにでも思い浮かぶ、彼女の笑顔に

僕が笑うと浮かべてくれた、優しくて、あたたかった、あの笑顔に

 

「……さようなら」

 

名前は、もう呼ばずに

静かに、背を向けた。

ねぇ、エミリオ

伝えたいことがあるの

 

どうしても、貴方に、伝えたいことがあるの。

私、何となく分かるの。あの仮面を被ったエミリオは、きっと、私の知っているエミリオが越えられなかった時を生きた人なんだって

だから貴方は私に、あんなことを言ったのよね。

 

ねぇ、エミリオ。貴方に会いたい。

貴方の欠片も埋まらぬ墓石にじゃなくて、どこに居るかも分からない海へでもなくて

貴方に、あの20年前に見た、貴方に

 

あの時を生き、今生きている貴方に、会いたい

 

ねぇ…。

 

会いたいの………。

 

カサカサと、葉の擦れる音が響いた。

すぐそこに、人の気配があることに気付かなかった。

嘘だと、ありえないと、驚愕の言葉だけが自分の頭の中に回る。

 

此処は、神の眼の騒乱が起きてから18年経った世界。

20年前なんかじゃない。

この庭に生えていた草も、全て枯れ果てているじゃないか

 

「…………居た……」

 

彼女は、ようやくといった風に、掠れた声で呟いた。

 

「……居た……っ…」

 

葉の擦れる音は、幻聴か、聞き間違いか

雨の音がザァザァと鳴っていることに気付き、完全に我を忘れていたのだと自覚する。

今の今まで雨の音を聞いていた覚えが無い。だが、決して雨が止んでいたわけでもなかった。

 

目の前の彼女もまた、長い髪を雨で重たくし、綺麗な衣装も雨に濡れて色を濃くしている。

でも、今はそんなのどうでもいいかのように、ただこちらを見て瞳を震わせていた。

 

あれから、18年が経った。

だがそれでも、彼女だと、すぐにわかった。

 

「居たんだ………本当に、居たんだ………貴方は……」

 

その言葉に、彼女がジューダスである自分の存在を知っているのだと、ちょっとしたリアラの時間移動失敗により起きた、あの20年前の記憶を持っているのだということを知る。

 

「20年前に、一度だけ……会ったよね」

「……………」

 

何も、答えられなかった。

純粋に、ただ驚いている。だけど、時が流れるごとに落ち着いていく己の心臓は、それにより違う感情に気付き、高鳴り始めた。

 

生きていて、よかった。そんな安堵の感情なんかじゃない。

焦りと、そして、恐れ

 

会っては、いけないんだ。

会っては、いけなかったんだ。

彼女の、為には

いけないことだった。

 

それに、なにより

僕は、彼女にたくさん、嘘をついた。たくさん、隠し事をした。

裏切ったも、同然のことをした。

今の彼女は、全て知っている。全て、気付いている。

 

どうしたらいいかなんて、思いつくはずもなく、体は冷えて固まるだけだった。

 

だが、次に来る彼女の言葉は予想外のものだった。

20年前の、五日前の、あの時のように

自分を罵る言葉でもなく、誰かに助けを求めるものでもなく

彼女は優しく、自分の存在に気付き、認めてくれるのだ

 

「貴方を、ずっと……探してたの。…ずっと、待ってたのよ」

 

また、いつか

果たせぬ約束に曖昧な返事を送った。

それを、彼女は信じていたのだろうか

 

本当に、彼女には

敵わない。

 

「20年も、待たされるなんて、思わなかったわ」

「………マリアン」

「ずっと……会いたかった」

 

震える腕で、抱きしめられた。

雨に濡れ続けた互いの体は酷く冷たかった。

それだけの時が、経っていた。

 

「そう……そう、なの………」

 

結局、現状の全てを話すこととなった。

時を越えた本当の力が一体なんだったのか、死した後なんで生きているのか

今何をしているのか、何の為に旅をしているのか

そして、明日には神を殺すのだと

 

「やっぱり、貴方は……あれからの、生き返った後の、エミリオだったのね」

 

だって、仕方が無い。今更何と嘘を重ねれば彼女を騙すことができるというのか

 

リオンの時は、彼女の知らないものを沢山抱えていた。

20年前に会った時は、それにプラスして彼女の知らない未来を、結末を、全て知っていたのだ。

でも今は、本当に対等に此処にいる。

いや、あれから18年を生きた彼女のほうが、僕より優位な位置にいるだろう。

20年前に、もう会うこともないだろうとボロを出したのも苦く後味を残している。

 

だがそれでも、全てを話したというのに、彼女はやはりこれまで付き続けてきた嘘に、隠し続けてきたことに対して怒るそぶりは見せなかった。

とても信じられないだろう神の話も、全て彼女は信じて理解を示し、眼を伏せて息を吐くのだ。

 

「貴方が本当に居て、良かった」

 

やがて全て話し終えたとき、彼女はそう言った。

互いの気配以外はしなくなった、この旧ヒューゴ邸の瓦礫の山に隣同士に腰掛、視線を交えることなく、彼女も僕もただ前を見ていた。

雨は今も降り続けている。

 

「私の幻想なんかじゃなくて、よかった」

「……幻想みたいなものではあるがな」

 

これからのことを思い、自嘲の笑みを浮かべる。

マリアンはこちらを見ることなく、表情を変えることもなく続ける。

 

「それでも、嬉しいの。……あれだけ独りで寂しそうでいた貴方の周りに、あんなお友達がたくさんいたのだから。たとえ……」

 

彼女は一度そこで言葉を切り、こちらを見た。

その視線に気付き、自分もまたマリアンへと眼を向ける。

真っ直ぐ向けられる彼女の眼は、全てを見透かしていた。

 

「たとえ……もうすぐ、無かったことになっちゃっても」

 

また、言葉が出なかった。

思わず息を呑む。

 

そこまで、話していない。これからどうなるかまでは、話していない。

歴史の修正。ただそれだけで、これまでのことが全て無かったことになる。そういう考えに至るのは僕が思っているよりも簡単なのだろうか?自分の周りに居る人間達が余りに鈍すぎて常識の範囲が下方修正されていたようだ。

十分、想定できる範囲ではあった。

だが、それだけでないことを、彼女の瞳に気付かされる。

 

「……ねぇ、神様を殺したら、貴方は消えちゃうのね」

 

流石に、これには黙って頷いては居られなかった。

あまりに悲しそうに呟く彼女の為に、何が何でも嘘をつきたかった。

開きかけた口は、だが、その彼女の手によって閉ざされる。

 

「わかるの。もう、わかるのよ」

 

マリアンは悲しそうな笑みを浮かべた。

自分の言葉を完全に閉ざすことができたと知り、口元から彼女の手が離れていく。

結局、また黙り込むことしかできなくなった。真っ直ぐマリアンを見ていられなくなり、視線を地面へと投げつける。

 

「昔は、貴方がそんな顔をするとき、何を考えているのか、わからなかった。だけど、今はわかるの。……貴方が、いなくなっちゃってから、全部わかったの」

 

仮面の下の表情を完全に読んでいる彼女の声は、悲痛に塗れていた。

これが、18年の年月の結果なのだろうか、これが僕のしてきたことの

 

「それに、もっと、ずっと、わかっていることがあるの」

 

……これが、結果なのだろう。

 

「貴方はもう、死んじゃったんだって」

 

彼女の頬から落ちている雫が、雨だけものであってほしい。

でも、彼女の震える声から、それは違うのだと、わかってしまう。

 

そっと、細い手が伸び、仮面を外される。

濡れそぼった髪を、優しく彼女は撫でた。

 

「……背、……変わらないね」

 

向き合う形となり、マリアンの顔を見る。

やはり、その眼からは雨とは違うものが幾重にも線を作っていた。

 

「……マリアン」

 

嗚咽を噛み締め、彼女は僕の体へと寄りかかる。

胸に、彼女の額があたり、振るえが心臓に直接響いてくる。

 

やっぱり、彼女は、泣いていた。

昔のような、あたたかな笑みではなくなっていた。

ただ只管に、悲しい笑みを浮かべていた。

全部、僕のせいで

そう思った瞬間、肺を潰されたのかと思うほど、胸が苦しくなる。息が、しにくくなる。

なんとか、しなければ。彼女だけは、絶対に護りたいのだ。

 

「すまない」

「……何?」

 

謝罪を呟けば、彼女は僕の胸に顔を埋めたまま声だけで問う。

縋りついてくるような彼女の手に、震えている背に、手を伸ばすことは、してはいけない。

一切動くことなく、視線だけ、彼女へと向けた。

 

「きっと、辛い思いをさせてしまっただろうから。……マリアンは、僕が巻き込んでしまったようなものだ」

「何を言ってるの……」

 

ようやく、彼女はゆっくりと顔を上げた。

必死にこちらを見つめている。必死に、今の自分の想いを汲み取ろうとしてくれている。

だが、僕はすぐ目の前にある彼女へと、拒絶の視線だけを送った。

 

「全部、僕一人の咎だ」

 

彼女と共有するものは一つもない。

 

「マリアンは、関係ない」

 

冷たく言い放てば、彼女は若干傷ついた表情をした。

眼を瞠り、じっとこっちを見ている。

その強すぎる瞳を、優しすぎる彼女を真っ直ぐ見ることができなくなって、眼を瞑った。

 

「忘れてくれて、……いいんだ」

「……………エミリオ」

 

ゆっくりと、彼女が自分の体から離れるのに、少しばかり安堵する。

寄りかかっていた重みがなくなり、体が軽くなる。

このまま、彼女の重みとなっていた存在も、消えてなくなってしまえばいい。

全て、忘れてくれていい。そうすることで、貴女が昔のように戻れるというのならば

なんだって、捧げるから

 

祈るように心の中でそう呟いた。

だが、突如マリアンの言葉に祈りが止まる。

 

「ごめんなさい」

「………?」

 

俯いたまま、マリアンは謝罪した。

その声は、もう震えていなかった。

 

「私、またやっちゃった」

「……マリアン…?」

「ずっと、伝えたいって思ってたのに、真逆のこと、してしまったわ…」

 

再び彼女が顔を上げた時、その表情は昔のように穏やかなものになっていた。

先ほどまでの強い悲しみはひっそりと影を残すのみとなっている。

 

「ねぇ、貴方は、私に、幸せになってって、言ってくれたね」

「…………あぁ」

 

突然の問いに、戸惑いから応答が遅くなる。

少しばかり釈然としない返答となったが、それでも彼女はその短い言葉を噛み締めるように受け止め、そっと胸に手を当てた。

 

「私ね、貴方にずっと会いたかったの、ずっと会って、伝えたいことがあったの」

 

彼女の取り巻く気は穏やかではあるが、決意に満ちていた。

黙って聞くことしかできない。沈黙で先を促す。

 

ふわりと、この壊れた街の中に、突如、華が咲いた。

あたたかく、優しい笑顔。それは、その人が本当に優しくて純粋で、心の底から思っているからこそ浮かべることができる笑みだった。

 

「ねぇ、エミリオ。私、随分前だけどね、結婚したの」

 

その言葉に眼を見開いた。

 

「子供もいるのよ」

 

嬉しそうに、幸せそうに微笑む。この冷たい雨に晒され続けていなければ、きっと彼女の頬はほんのり赤くなっていただろう。

 

「家族に囲まれて、……今ね、……とても、幸せよ」

 

突然の彼女からの言葉は、ゆっくりゆっくり胸の中に染みていく。

 

あぁ

感動から、ため息が漏れる。

 

ようやく、脳にまで彼女の言葉が達し、次に言葉の意味を理解する。

 

そうか、ちゃんと、幸せになってくれていたんだ。

先ほどまで、息が詰まるほどに苦しかったのに、それらは先ほど吐き出した息の中に全て入っていたようだ。ただ、安心感に包まれる。

 

だが、胸の内に一つぽっかりと、寂しさという穴が開いた。

それを、見ない振りをして、次に自分のすべきことを考える。

 

彼女は、幸せだ。ならば、ならば

 

早く離れよう。

今更現れて、悪いことをしてしまった。

 

彼女が幸せならば、もう、それだけでいい。

もう思い残すことは何も無い。もう、消えてしまっても、構わない。

 

「良かった」

 

随分と久しく、笑顔を浮かべることができたと思う。

やっぱり、そうだ。

貴女が笑えば、僕もまた、心の底から微笑むことができるのだ。

 

ずっと伝えたかったのだと、言っていた。こうして、僕を安心させたかったのだろう。

その気持ちが、本当に嬉しい。

 

そのまま冷たい瓦礫の上から立ち上がる。

優しく、微笑んだままこちらを見上げるマリアンを脳裏に刻んだ。

外された仮面を手に、彼女に背を向けた。

 

これで、心置きなく、神との決戦に望める。

再び神からの誘惑があろうと、また同じ強さでそれを跳ね除けることができるだろう。

消えていくことが、できるだろう

 

終末への道を歩みだす。

だが、その足は一歩目で止められた。

 

強く、腕を握られた。

 

行かないでと、言うように

振り向けば、彼女は強い瞳でこちらを見ていた。

 

「エミリオが、私を護ってくれたから」

 

話は、まだ終わってない。

そう言わんかのように、こちらを強く見つめ、会話を続ける。

 

「エミリオが、私を護ってくれたからよ………」

 

もう一度、彼女は同じ言葉を呟いた。

 

「私が、今、幸せなのは、エミリオが、私を護ってくれたから」

 

腕を掴む手が、力を込めすぎて震えている。

またマリアンは俯いた。雨により前髪から雫が一つ二つと落ちる。

 

「……ったしかに、18年前の、あの悲劇に貴方も加担してしまったのかもしれない……」

 

びくり、と思わず体が震える。

全てを知る人に、その事実に触れられるのは、怖い。

体中を駆け巡った恐怖は、だが、次に彼女の精一杯の言葉に止められる。

 

「だけど、だけど……っ! だから、私は今この幸せを手にしている……っ」

 

大丈夫、怯えないで、違うから。

そう言うように、一生懸命に彼女は言葉を紡いだ。

 

そして、彼女は、顔を勢いよく上げて、叫んだ。

 

「絶対忘れないからっ!!」

 

雨の音に負けないくらい、大きく、強く、そう叫んだ。

 

「どれだけ世界の人が貴方を罵っても、この幸せは、あなたがくれたんだって……っ!絶対、忘れない……っ!本当のリオンが……エミリオが、とても優しい人だって、まだ小さいのに、あの時、本当に頑張って、頑張って……私を護ってくれた、強い人だったんだって…っ!どれだけ周りの人がリオンのことを悪く言っても、私、知ってるから!」

 

一気に、彼女は自分の胸の内を全て吐き出すかのように、そう言った。

一言一言、全てに魂が宿り、どれも雨の音なんかでは掻き消すことができない。

 

そして、最後に、彼女はもう一度、強く叫ぶ。

 

「エミリオの笑顔、絶対、忘れないから………っ!!」

 

再び、彼女の眼には涙が零れた。

それでも、その瞳に揺るがない強さは残ったままだった。

 

「あなたのこと、忘れないから!!!」

 

先刻、同じように、雨に負けない怒鳴り声を放ち、走り去った男を見た。

声量は、それと同じか、劣るかもしれない。

だけれども、彼女の言葉のほうが、強く強く響き、この耳に、この胸に、この脳に、響き渡り今もまだその波は衰えることなく、震え続けていた。

 

今、幸せなんだと言った彼女の口から

忘れない。覚えている。そう、返って来た。

 

ボロボロと彼女が涙を流すのは、彼女の言う幸福が嘘だからでは、ないのだろうか

……いや、多分、違う。

真っ直ぐ、一生懸命に僕を見つめる彼女の眼は、嘘など付いていない。

ボロボロと、彼女は涙を流し、嗚咽を堪えながら、こちらを見つめている。

その瞳は、自分の想いを伝えたくて必死だった。今ので、伝わったのか、必死に探っている。ほんの僅かでも、もっと伝われと、強く願っている。そんな眼だ。

 

あぁ、そうか

一方的に、ただ想っているだけだった。必死で、周りが見えていなかった。

彼女もまた、自分を、想ってくれていたんだ。

 

マリアンは全て吐き出して息が切れたのか、はぁはぁと荒く息をし、開いている手で涙を拭った。嗚咽から肩が幾度と震えている。

そんなになるまで、想ってくれていたのだと、初めて気付いた。

 

ただ、生きていてくれたら、それだけでいいと思っていた。

忘れてくれても、構わないと思った。

もうこっちを見て笑ってくれなくても、どこかで笑っているなら、それでいいと思った。

 

だが、彼女は、覚えていてくれると、忘れないと、言ってくれた。

そうなると、欲がふつふつと込み上げてくる。視界が、揺らぐ。

 

じゃあ、僕は、貴女が僕にくれる笑顔を、失わなくて済むの?

また、笑ってくれるのですか。まだ、求めても、いいのですか

 

目が、熱い。

雨なんかとは、全然違う、熱いものが、頬を伝った。

 

時々でいい。普段は忘れていてくれていい。年に一度でも構わない。十年に一度でも構わない。下らない世間話がきっかけでもいい。僕の知らない人達の話ででもいい。

貴女が僕に向けて、笑顔を見せてくれるならば、僕は

 

ずっと見上げてくる彼女の為に、膝を折る。

同じ高さで、近くなった彼女の顔。涙と雨に塗れて尚、綺麗な彼女に、自分の願望を、吐き出した。

 

「マリアン………笑って」

 

一拍置いて、彼女は笑ってくれた。

それは、先ほどまで精一杯気持ちを吐き出していた名残から、少しばかり硬かったが、それでも、十分すぎるほどだった。

僕に向けられた、笑みなのだから。

 

「ほら……しあわせだ」

 

そう言った時、自分の顔は自然と笑顔を作っていた。

 

その瞬間、彼女は硬い笑顔を一気に崩し、泣き崩れた。

ちゃんと伝わったのだとわかったから、彼女もまた、安心したのだろう。

悲しくて泣いているんじゃない。嬉しくて、安心して、それで泣いているのだと、痛いほどに伝わってきた。

貴女のその気持ちが、本当に、愛おしい。

 

貴女が居たから、笑顔を忘れずに居られた。

暗く冷たい世界に居ても、貴女が笑顔を向けてくれたら、笑みを浮かべることができた。

どれだけ世界の人々が僕の存在を否定しても、殺しても

この笑顔が在るだけで、また僕は笑顔を浮かべることができる。

 

ありがとう

もう、怖くない

 

「エミリオ」

 

落ち着いたマリアンは、噛み締めるように自分の名を呼んだ。

ずっと握っていた僕の腕を一度放し、彼女は立ち上がる。それに釣られ、自分もまた同じく立ち上がった。

 

ふと、優雅な動作で彼女は手を差し出す。

その意図は、すぐに理解できた。

 

その手に、そっと自分の手を置く。

 

「……覚えているのか?」

 

前に聞いた時は、1年経つか経たないかの頃だった。

だが、今は、彼女からしたら20年も経っている。

それでも、彼女は言葉は返さず、満面の笑みを浮かべた。

 

彼女は、前に僕が教えたのと全く同じ動きをしてみせた。

僕の手を取り、ゆっくり持ち上げていく。

 

「右手は、こう」

 

一寸の狂いなく、右手は昔彼女に教えたその形を取った。

 

「で、……左手は、こう」

 

左手も、同じだった。

お互い、手へと向いていた視線を互いの目へと向ける。

もう、何を言わなくても、全てが伝わってきた。

 

胸の内から湧き上がるものに任せ、二人で、同時に呟くのだ。

 

「Yes, my lady」

 

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