割られた天秤 – 5

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突然少年の部屋にやってきた女性に、カイル達も息を呑んだ。

 

「……え?どういうこと……?」

 

カイルが思わず視線をやるのは、ベッドの上にある枕。

正確には少年が隠した、その枕の下に在る写真。

 

「……お母さん生きてたの?」

「んなわけないでしょ。年齢考えなさいよ」

 

カイルの言葉にすぐさまハロルドの突っ込みがはいる。

確かに年齢は写真の女性よりも若く見える。だが、やはり似ている。

そう感じるのは少年も同じようで、今だ彼は唖然と女性を見ていた。

 

「……あの、どうかなされましたか?」

「あ……いや……」

 

マリアンと名乗ったメイドの女性は少年の様子に首をかしげる。

少年はそっと首を振ってようやく女性の顔から目を逸らし、俯いた。

 

「………どうして」

 

俯いた彼がそう呟いたのがカイル達には聞こえたが、マリアンにはよく聞き取れなかったようで、また首を傾げる。

少年の手が強く握られ、僅かに震えていた。

 

「……マリアンと言ったな」

「はい、……どうかなされましたか…?」

 

もう一度そう尋ねるマリアンに、リオンは俯いた顔を上げたが、目線は彼女の顔にあわされることなく横を向いたまま尋ねる。

 

「何故、此処に?」

「え?……えっと、ヒューゴ様から直々にリオン様の世話をお任せ頂きまして」

「……………そう、か…………今日は、もう休む。明日から」

「はい。わかりました。それでは、明日から宜しくお願いします」

 

メイドは少年にそっとお辞儀をして扉を閉めた。

気配が遠のいていくまで、少年はその場から動けなかった。

 

「………どういうこと?」

 

カイルはまた俯き動かない少年に仲間達を振り返り首を傾げる。

仲間達も少年を横目に考え込んでいるようだったが、ぼそりと独り言のようにリアラが呟いた。

 

「………ジューダスのお父さんが、直々にマリアンさんを呼んだのよね…?」

「…だね」

 

相槌を打つように答えたのはナナリー。

確認をするように言うリアラの言葉には、多くの意味が込められている。

それを察して、更に答えに近づくよう続けるのはロニ。

 

「……当然、ヒューゴは妻の、ジューダスの母親の顔くらい、知ってるよな」

「当然よねー。で、あのメイドはクリス=カトレットにそっくりだってわかってるってことよね。更にそれをわかっていて、わざわざリオンの世話役にしたってわけね」

 

締めにハロルドにそこまで言われればカイルにも理解ができ、そっとリオンの顔を覗き込む。

少年は眉を寄せ、困惑したような表情で床を見つめている。

 

「……どうして、ヒューゴが?…ミクトランに操られてるんだよね?」

「さぁね……ミクトランが何かたくらんでの行動か……または」

 

カイルの言葉にハロルドはため息をつきながら答え、一度言葉を区切った後、遠くを、恐らくヒューゴの部屋にあたる方向を見て言う。

 

「ジューダスの父親である、ヒューゴ=ジルクリストがミクトランの精神に何らかの支障をきたしたことでの………父親としての行動か……」

 

ハロルドの言葉に皆、眉を寄せた。

本当のジューダスの父親は、彼を、自分の子供を愛しているのだ。

 

「辛いね……」

「でも、過去に起きた事実なんだ……これが、神の眼の騒乱の真実なんだ」

 

ナナリーの言葉にロニは自分に言い聞かせるように呟いた。

 

『……坊ちゃん』

 

再び少年の時を動かしたのはシャルティエの労わるような言葉。

 

『今日は、もう休みましょう』

「………あぁ」

 

メイドがつけた明かりは少年によりすぐ落とされた。

 

リオンは今までの生活からか人との付き合いが非常に苦手……というよりも、自分から関わろうとすらしていなかった。

今まで人の裏ばかりを見てきた為、人の言葉を信じるようなことができないのだ。

 

あれから数日。

城ではまだ幼いのと、王と王妃のお気に入りの為か妬みがある中、リオンを護るように関わってくる人物も居た。

だが、そんな人でも少年は警戒心を緩めることができず、その裏を探ることをやめられない。素直に人付き合いができない少年の姿は今の……少し前のジューダスと被った。

 

城から帰り、少年はヒューゴ邸へと向う。

身寄りの無い剣士を受け入れてくれた、他人の家。

その認識がどうしても少年の足を重くしているようで、彼のの表情はいつまでも緩むことがなかった。

 

「やっぱり……辛そうだね……」

 

カイルの声に仲間達も小さく頷く。

 

廊下を歩き、少年の部屋となった場所へとついた。

疲れがとれないようで、リオンは俯きながらドアを開いた。

 

「あら」

 

突然聞こえてきた声に少年は急いで顔を上げる。

精神状態からか、中に居る気配すら感知できなかったようだ。部屋に居た女性に思わず警戒の色が濃くなる。

マリアンと初めて出会って数日、彼女は新しい仕事の為かまだ忙しいらしく、リオンと関わることはほとんど無かった。

だが、今回はたまたま彼女がメイドの仕事としてリオンの部屋に居るときにリオンが帰ってきてしまったようだ。

 

びくりと大きく肩を揺らしてから、一歩部屋から身を引いてこちらを睨む少年に対して、話しかけた女性、マリアンは首を傾げ、だがすぐに微笑み言った。

 

「おかえりなさい」

 

それに毒気を抜かれたように少年は唖然とマリアンを見た。

 

「……?……どうしたの?」

「…………」

 

おかえりなさい。その意味は誰だって、リオンだって知っている。

だが、リオンがその言葉をかけてもらったのは、これが初めてだった。

 

それに気付いたのは仲間達の女性陣で、ナナリーやリアラはふと顔を綻ばせる。

 

「……おかえりなさい、って……此処は、僕の……家じゃない」

「あら、それでも、此処はリオン様の帰る場所でしょう?だから」

 

マリアンは部屋に花を飾りにきていたようで、机から離れると少年に目線を合わせてにっこりと笑った。

 

「おかえりなさい」

 

少年は初めてマリアンと会った時のように困惑した表情になり、言葉に詰まる。

そんな様子に、女性陣の次にロニが気付いたようで、彼は思わず微笑んだ。

 

マリアンのそれは、仕える者に対しての態度としては余計なものかもしれないが、リオンがまだ幼いのと、恐らくここ数日の城での様子を噂で聞いていたのかもしれない。

実際、幼い剣士の噂は町を巡り、身寄りの無いことから大変な思いをしてきたのだろうと人付き合いの苦手な少年を暖かく見る目があちらこちらであるのだ。

 

だから、これはきっと、同情だとかお節介と呼ぶものなのかもしれない。

それでも、母に似た女性の暖かい笑みは、少年の凍った心を溶かした。

 

「………」

 

言葉はでなかったが、こくりと頷いた少年にマリアンは満面の笑みで答えた。

少年の白い頬に朱が入る。

 

「……ヒューゴ様に、報告があるから、行ってくる」

「はい、行ってらっしゃい」

 

シャルティエ以外の荷物を置き、恥ずかしさから逃げるように少年は部屋から飛び出した。閉めた自分の部屋の扉に背を置き、少年は手の甲で顔の半分を隠す。

しばらくそうして、落ち着いたのか、扉から背を離し、ヒューゴの部屋へと歩き出した。

 

『優しい人ですね』

 

そう話しかけるシャルティエの声も優しさや暖かさが含まれており、カイル達は自分達と同じように、少年の大切な相方が喜んでいることを知る。

 

リオンは沈黙で答えるが、先程のことを思い出したのか俯き、僅かに微笑んだ。

寂しげな笑みだったが、それでも、今はとても大切なものだった。

 

 

突然のマリアンとの触れ合いに揺さぶられた心を落ち着かせながら、リオンは一つ息を付き、心を落ち着かせる。

マリアンに言ったように、ヒューゴに報告にきたのだ。

 

トントンと2回ノックの音が響く。

 

「ヒューゴ様。リオンです。報告に参りました」

 

少年の声が静かな廊下に響く。

しばらく経っても静寂が続くだけで部屋から声はなかった。

リオンは首を傾げる。確か、もう帰っていると思っていたのに

 

しばらく少年はその場に立ち竦んでいたが、やがてそっと白い手をドアノブに当てた。

ゆっくり回せば、カチャリと音がして扉は開かれる。

 

『坊ちゃん……?』

「鍵……かかっていない」

 

何度か報告しに来たヒューゴの部屋。

ヒューゴが部屋を空ける時は必ず鍵がかけられていたというのに

 

またしばらく、少年はドアノブに手をかけたまま黙り込み、だが、やがて中に入った。

リオンに思い切った行動をさせたのは、やはりヒューゴが直々に連れてきたというマリアンの存在だろう。

 

誰もいない静かな部屋に、リオンの足音は小さいながらもよく聞こえる。

少年は入ったはいいが、何をするでもなく、ただ部屋を見渡していた。

 

カイル達は一度見たことの在るこの部屋。ベルセリオスの、ミクトランの存在を知ったこの部屋。自ずとカイルの体はあの時ベルセリオスが置かれていた机の影へと向う。だが、そこには何も無かった。持ち歩いているのだろうか。

 

やがて、部屋を眺めていたアメジストの眼が、一つの方向に留まった。

それは扉。先程リオンが入ってきた廊下に続くものではない。

 

『ヒューゴの、寝室ですよね』

 

シャルティエが確認するように言うが、リオンは答えなかった。

その部屋の存在は知っていたが、リオンは一度も入ったことがないのだ。

やがて少年の足はそちらへと向う。

 

再びドアノブにかけられた手は、少し震えて見えた。

先程よりも時間をかけてドアノブを回す。とても静かだが、確かに音が鳴った。

それ以降は音も立てずにドアは開いた。

 

少年が一歩部屋に踏み込む。カイル達もこの部屋を見るのは初めてで、少年の緊張と部屋の静寂からかカイルは唾を飲み込んだ。

今まで独り言のように話していたシャルティエも会話を慎む。

 

そこにはベッドと、棚が2つ程。とても簡素なものだった。だが、だからこそ、棚の上に一つ置かれたそれが、とても浮き立って見えた。

 

それを見つけた少年の表情は変わらなかった。同じように見つけたカイル達は目を見開いたというのに

だが、少年は吸い込まれるようにそれへと近づく。

 

「…………」

 

近づくことで、確かとなったそれに、少年は言葉もでなく、表情も変えない。

無表情だが、アメジストが小刻みに揺れることからかろうじて動揺していることだけが分かった。

 

それは、確かに少年が持っているはずの写真と同じものが飾られた写真立て。

黒髪の、少年のメイドとなった彼女そっくりの女性が映っている写真。

少年の母親、ヒューゴの、妻の写真だった。

 

「…………ヒューゴさん………」

 

リアラは呟き、涙を流した。

ハロルドの言葉を思い出したからだ。きっと、ミクトランに支配されていても彼は家族を愛し続けている。

 

少年の手が、写真立てへと伸びる。

その手は縁を握るだけで、まるで重くて動かせないかのようにそれ以上の動きは見せなかった。

 

「………母さん」

 

今まで黙り込んだままだった少年が、ぽつりと呟く。

そして、同じ唇が紡いだのは

 

「……と………、……。」

 

完全に音にはならなかったが、確かに唇は形を作っていた。

 

ハロルドは目を瞑った。

きっと少年は気付いた。父がまだ母を愛していることを

だけれども、目の前にある遠い愛とは間逆の現実が、少年を取り囲んでいる。

だから、少年はこれが受け入れがたい……だが、

 

(……今は、マリアン=フュステルがいる。母親の面影を持った女。彼女をリオンの世話役に付かせたのはヒューゴ……)

 

それが、リオンへの……ヒューゴが僅かに見せた愛情であることを、少年は感じ取ったはずだ。

 

『………坊ちゃん』

「……………」

 

ただ、突然の愛情に戸惑いを隠しきれないだけで、素直に受け取れないだけで

本当は、この写真を見つけたことで、少年の心は喜びに打ち震えているはずなのだ。

 

「………戻ろう。報告は、ヒュ………様、が………戻った時でいい」

『はい』

 

そう言って、少年はゆっくり写真立てから手を離す。

手を話した後も、しばらくそれを見ていたが、振り返ってからはその写真を見ることもなく、部屋を出て行った。

 

その後姿にロニは眉を寄せながら鼻をこすり、ナナリーは天上を睨みつける。

 

「なんだか………よかったって、思いはするが……素直に喜べないな」

「………」

 

ロニの呟きに答える者はいない。

 

この写真立てとマリアンの存在は、確かに追い詰められた少年を救ったが、結局ヒューゴ=ジルクリストは自我が戻ることなく悪名を轟かせて死んでいったのだから。

 

「……喜んでおきなさいよ。私達は未来から来たけれど、今を必死に生きているあいつには、確かな希望になったんだから」

「……あぁ」

 

ハロルドの言葉にロニ達は静かに頷いた。

 

その後、再びヒューゴに報告する為、リオンは部屋を訪れる。

今度は既に部屋に帰っており、いつもの厳しい表情が少年を見下ろした。

 

少年の父を見る目が変ったのは言うまでも無いだろう。

いつも俯いていたのだが、今回は隙を見てはそっとヒューゴの表情を伺っていた。

だが、幾度彼を見ようと、いつもの冷たい男のままで、すぐに少年はまた前のように俯き報告をするようになった。

 

だが、それでも少年が写真立てを見たときの希望は消えていないと確信できた。

 

報告を終え、部屋へと戻ってきたとき、前とは違い、少年は中の気配に気付いた。

 

ヒューゴの部屋へ出直すのに一度リオンの自室へと戻ってきた時には既に居なくなっていたというのに

少年の小さな体が僅かな緊張に固まる。

そっと扉が開けば、思っていた通りの存在が部屋の中にあった。

 

「あ、おかえりなさい」

 

声をかけられ、少年は俯いた。

きっと少年の脳裏には、あの写真が映っているだろう。

 

「……リオン様?」

「………」

 

自分を見ながら固まった少年にマリアンが声をかける。

ぴくりと少年の肩が反応したが、声はでない。

マリアンはしばらくリオンの様子を遠くから伺っていたが、やがて少年に近づいた。

 

「………ただいまって」

「……え?」

「ただいまって、言うのですよ。おかえりなさいって挨拶をもらったら。…ね?」

 

にっこりと笑うマリアンに、少年は俯いていた顔をあげる。

 

「………」

「…ふふ、今日はね、ちょっとお話しようかなって思って。せっかくなんですもの。リオン様のこと、色々教えて欲しいの」

「………敬語」

「え?あ、ごめんなさい。少し苦手で」

「違う。……使わなくていい。……様もいらない」

 

突然のリオンの言葉に、マリアンは少し面食らっていたようだが、やがてまた微笑んだ。

 

「じゃあ、リオン。今まで仕事に慣れるのに忙しかったんだけれども、これからはもっと会う機会があると思うの。改めてよろしくね」

「………よろ……しく……それと」

「ん?」

 

一度少年は俯き、だが拳を握るとそのまま頬を染めながら言った。

 

「……ただいま」

 

マリアンはもう一度「おかえり」と満面の笑みで言った。

 

リオンはマリアンに椅子に座るよう促すと、自分はベッドのほうへと腰掛けた。

まだ少しギクシャクしている少年とは反対に、マリアンは始終笑顔で何かとリオンを質問攻めにした。

メイドとしての仕事の参考にもなる、「好きな食べ物は何か」等からまったく関係のない質問まで。

 

優しく微笑む女性の顔は、カイルでも写真の女性と被り続け、今、リオンはどんな気持ちなのだろうと彼の顔を見る。

少年の表情は少しだけ険しく、何か迷っているように思えた。

だが、それも最初のほうだけだった。 質問にただ淡白に答えるだけだったリオンだが、後々は会話が続くようになり、マリアンの笑みも増した。少年が浮かべていた迷いも次第に消えて、話に真剣になっているようだ。

 

「ねぇ、リオンは誕生日はいつなの?」

「……誕生日?」

「そう、誕生日」

 

仲間達も知らなかったジューダスのことがその質問で出てくることがあり、会話に入ることは出来ないが、各々楽しく聞き入っていた。

この冷たい歴史の流れの中、珍しく暖かい世界だったと思う。

 

「ふふ、今日はたくさん教えてくれてありがとね、リオン」

 

どうやらお話は終わったらしい。少し名残惜しいのか、少年の表情が変わる。

ふと、また消えていた迷いが少年の表情に浮かぶ。

カイルは小首を傾げた。…多分、彼は何かを言いたいのだろう。

 

「また、明日も来るわ、リオン」

「…………マリアン…」

「ん、なあに?」

 

きゅっと少年は手を握り、俯いた。

マリアンは小首をかしげ、椅子から立ち上がりリオンのほうへと近づく。

だが、完全に彼女がリオンのほうへ来る前に、少年は俯いたままポツリと呟いた。

 

「………エミリオ、と」

「え?」

「エミリオと、二人きりの時、呼んでくれないか」

 

突然のお願いに、またマリアンは小首を傾げる。

反対に仲間達は固唾を呑んだ。

たった今、あのジューダスでもある少年が、目の前の女性に心を開こうとしているのだということがわかったからだ。

 

顔を上げなくても困惑している彼女の様子がわかったのか、リオンは拳に更に力を入れた。

 

「本当の、名前なんだ……」

 

少年の肩が震えるのは、拒絶への恐れ。

今のリオンの気持ちほどではないが、仲間達にも緊張が走る。

 

リオンは何とか此処まで言葉を紡ぎ、彼女の答えをまとうとしたが、もう限界だった。

 

「ごめん、なんでもない」

 

そう言って逃げるように立ち上がり、マリアンに背を向ける。

部屋の奥にでも逃げてしまおうとしていたリオンだったが、その前に少年の頭に温もりが当たった。

 

「エミリオ」

「…………」

 

ゆっくりと頭を撫でられた少年は、ぽとりと一つ涙を零した。

シャルティエがほっとした息を出した後、『よかったですね、坊ちゃん』ととても優しく呟いたのが聞こえる。 今ここにいる仲間達も、全く同じ思いだった。

 

 

あれからマリアンはリオンの部屋によく来るようになり、話す機会も増えた。

彼女はいつも優しい笑顔で少年に接して、初めて少年がマリアンにつられて笑ったときは、彼女は眼を見開いて大喜びしていたものだ。

そんな彼女の反応が少年はよくわからなかったのか、首を傾げた。

 

「どうしたんだ?」

 

それに対して彼女は満面の笑みで答えた。

 

「エミリオが、初めて笑ってくれたから。とても嬉しいの」

 

少年は更に首を傾けた。

 

「……僕が笑うと嬉しいのか?」

 

マリアンはそれに優しく微笑みかける。

 

「そうよ。とても、幸せな気持ちになれるわ」

「…………そう、か」

 

本当に幸せそうに言うマリアンに、少年は頬を染めて俯いた。

だが、すぐに俯いた顔を上げて、少しぎこちない笑みを浮かべる。

マリアンも微笑みで返した。

 

それから、リオンはマリアンの前だけ、よく笑うようになった。

よく、とは言っても、前に比べればの話しだが

マリアンの前だけで見せるその年相応の微笑みには、マリアンのいうように仲間達も幸せな気持ちになれたものだ。

 

「……よかった。ジューダス、ずっと独りじゃなくて、よかった」

「うん……幸せそう、ね」

 

カイルの言葉にリアラが答える。

 

今もヒューゴのリオンに対する態度は変わらず、少年の世界は狭く冷たいけれど

それでも、今目の前にあるのは、小さくとも大切な、本当の幸せだった。

 

あれから数年。少年は14になった。

彼は完全にマリアンに心を開いただろう。

今ではマリアンに向ける笑みは自然なものとなっていた。

 

だが、それとは逆に、城では更に少年は周りの人間と関わることを拒絶しつつあった。

 

「……まーたジューダス、人から離れようとしてる…」

 

リオンの同僚に対する素っ気無い態度に、カイルが眉は寄せながら呟く。

初めて城に入ってから、マリアンとはあんなに仲良くなったというのに、対象的に今でも少年は城の者と親しくなる傾向が見えない。

 

「そりゃ、しゃあねぇだろ」

 

ロニが片目を細め、その場に居辛そうに呟いた。

 

「元からあいつは……ヒューゴのスパイみたいなもんで、入ってんだからよ………ダチなんて作れるわけねーわな」

「あ………」

 

言われて初めて納得し、カイルは口を閉ざした。

ジューダスを仲間に入れたときの言葉を思い出す。

ただ純粋に仲間と、友達を、大切な者を作れない彼に悲しくなった。

 

任務を終え、珍しく人気のない城の中庭で少年が小さくため息をつく。

城ではシャルティエと二人だけで居られる時間が、彼には一番安らげるものなのだ。

 

「リオン」

 

突如城のほうから声が聞こえ、少年は顔をそちらに向けた。

カイル達もそちらを振り向く。

 

「……フィンレイ様」

 

少年の表情が少し変わった。

 

フィンレイ=ダグ。七将軍を結成した大将軍。

先の騒乱でダリルシェイドが崩壊しているのもあり、勉強が苦手なカイルにとっては聞いたことがある気がするといった程度の人間だったのだが、この流れる歴史の中ではかなり大きな人物であった。

何より、あのリオンがフィンレイを尊敬しているのだ。

誰もが天才と謳うあのリオン=マグナスが

仲間達の中でも抜群の剣術を使う、あのジューダスが

 

その彼が、こうしてリオンに話しかけることは珍しくはない。

ただ、彼が忙しい身である為、そう頻度はないが、やはり彼も少年の才能に興味があるのだろう。

フィンレイはリオンのほうへと歩み寄りながら尋ねる。

 

「どうした、疲れているのか?」

「いえ」

 

先ほどのため息を見ていたのか、様子を伺う彼に対し、リオンは即答した。

僅かな表情の変化はあったものの、やはりリオンの対応は冷たく感じる。

見えない仮面を被っているようだった。

そんな様子にフィンレイは少し苦笑した。

 

「……少し手合わせしようか」

「え…」

「やはり疲れていたか?」

「い、いえっ!お願いします」

 

突然の申し出にリオンの表情が僅かながら輝いた。

少年の剣はヒューゴに無理に叩き込まれたものだが、やはり彼は根っからの剣士なのだろう。尊敬する者との手合わせに僅かながら興奮している。

いつも完璧なあのジューダスが、カイルが彼を憧れるのと同じ顔をしている。

こういうとき、やはり彼も子供なのだと改めて認識させられた。

いつ見てもリオンの剣は綺麗で正確。

とても14の子供が繰り出すものとは思えない。

だが、やはり小さな体は力が劣り体力もない。

 

フィンレイの多くの経験をつんだ力強い剣に、シャルティエは弾かれる。

何とか手放すことだけは免れたが、勝負は付いていた。

 

リオンは荒れた息を整えた後、姿勢を正す。

 

「ありがとうございました」

「あぁ」

 

フィンレイも一つ息を付いた。

正直、この歳の子供が此処まで付いてくるということ事態がなんとも恐ろしい。

 

幼い少年が不釣り合いな剣を違和感なく鞘に収める姿に、フィンレイは目を細める。

 

「リオン……お前はきっと、私を越えるぞ」

「……恐縮です」

「世辞ではないのだがな」

 

躊躇いながら答えるリオンにフィンレイはまた苦笑いした。

彼もまた剣を鞘に納めると城壁を背もたれに座る。

リオンはフィンレイと近くもなく、遠くもない距離を置きその場に佇んだ。

フィンレイは少年との距離を見たあと、少年を見る。

その表情は真剣で、かつ暖かい。

 

「……リオン。信じられる仲間を持つというのはいいことだ」

 

突如そう話し始めたフィンレイにリオンは反射的に口を開いたが、答える言葉が見つからずにすぐ閉じ、フィンレイに視線を返した。

彼は僅かに目を細めた後、続ける。

 

「何も規律やルール、上司の言うことだけを守ればいいだけではない。お前は確かに強いが、一人で解決できないこともある。当然のことなんだ。頼っていけないことなどない」

 

フィンレイの力強い眼差しはリオンを見つめ続け、やがて少年は目を逸らさざるを得なくなった。

そんな様子にフィンレイは少し悲しそうに表情を歪める。

 

「お前に何があったかはわからんが、あの歳で一人とはそれなりの思いをしてきたのだろう。だが、お前はまだ14だ。お前の見てきたものが全てではない」

 

リオンはどう反応を返せばいいのかわからないのだろう。

彼の言葉を心に入れること事態が困難に違いない。

フィンレイは俯いてしまったリオンをしばらく見ていたが、やがて立ち上がるとポンと少年の肩に手を置く。

 

「忙しい身ではあるが…それでも、私はお前が手を伸ばしてきたのならば、取ってやる余裕くらいある」

 

それだけ言い残すと、彼は少年の横を通り抜けて城の中へと入っていった。

 

呼吸を忘れていたかのように息を詰めていた少年が、やがてそっと肺に溜まった空気を吐き出した。

 

『……素晴らしい人ですね。さすが…坊ちゃんに尊敬の念を抱かせるだけあります』

 

シャルティエの言葉は少しふざけたような物言いだったが、声色には優しさが混ざっていた。リオンは静かに「あぁ、そうだな」と返す。

 

「……尊敬している。それに……こう言うのも、変だが………少し、羨ましい」

 

それは、信じられる仲間を持ったフィンレイに対する少年の言葉だった。

そして、自分にはそれが出来ないのだと、既に諦めている言葉だった。

 

ロニはギリッと奥歯を噛み締める。少年は何時だって諦めを繰り返している。

そう、自分の仲間であるジューダスも、どこかで諦めを繰り返しているようだった。

それはとても悲しいことであり、気付き始めたロニは、それに腹立たしさを覚えた。

もっと足掻けよと、叫びたい。

 

きっと、彼の半身であるソーディアンもいつものごとく、同じように思っているはずだ。

だが、近くにいるからこそに、少年のことを知り尽くしているからこそに、その残酷とも取れる言葉は吐けなかった。

だから、ソーディアンはいつもこう答える。

 

『…坊ちゃんには、僕がいますよ。僕は最後まで坊ちゃんの仲間ですから』

 

そうすれば、少年は僅かに幼い表情を取り戻し、縋るように柄を握るのだ。

 

ロニは硬く目を瞑り、ため息をついた。

ならばせめて、ほんの僅かでもいいから、長く、少年が幸せに生きられる時間が、マリアンとシャルティエと共に笑える時間が続くように。そう願った。

 

だが、2度目の絶望は、すぐそこまで来ていた。

 

「へぇ、フィンレイ様……噂でよく聞くわ。とても素晴らしい方だと」

「あぁ、剣も……僕はまだまだ歯が立たない」

 

リオンはヒューゴ邸の自室に戻り、いつものようにマリアンと話していた。

ふと、話題に出たのがフィンレイのことで、今回手合わせしたことを少年は彼女に話した。

 

「あら、でもフィンレイ様言ってくださったのでしょう?いつか越えられるって」

「…………あぁ…だけど…」

「エミリオなら越えられるわ。きっと」

「………。」

 

そう言って頭を撫でらて、少年は目を閉じた。

マリアンが優しく告げるのはいつも希望だった。

彼女の暖かな言葉は、全て少年の希望に繋がった。

 

もしかしたら、と僅かな希望を少年が垣間見たのを仲間達は感じる。

だが、だけど、と同時に躊躇っているのも。

 

だから、少年は更に、フィンレイの言葉を全て話した。

マリアンはいつものように穏やかに聞いていたが、やがてこくりこくりと首を縦に振った。

彼女が何に対してその反応を示したのか、リオンには何となくわかって、目線が下がる

 

「エミリオ。フィンレイ様の言うように、もっとお城でお友達、作ったほうがいいわ」

「………。」

「私も、エミリオに何があったかわからないけれど、きっと、フィンレイ様なら力になってくれると思うの。エミリオはまだ子供よ。もっと、大人を頼っていいのよ」

 

少年が僅かに唇を噛んだ。

まだリオンは、マリアンに全てを伝えていない。

ヒューゴと、親子だということも、マリアンが自分の母親に似ているのだということも。

何故だか、少年には伝えられなかった。だからこそ、彼女の言葉に少年は答える術を持たない。

 

少年が伝えられない理由を気付いてはいないが、それでもカイルやロニ、ナナリーはマリアンの言葉に、後ろでそろって力強く肯定を示し頷く。

もっともっと頼っていい。きっとフィンレイという男ならば、必ず言葉通りに少年の手を取ってくれるだろうに。

 

コンコン、とノックの音が2回響いた。

リオンは結局マリアンの言葉に返答することができず、ノックの主のほうへと声をかける。

 

「…何だ?」

「リオン様、ヒューゴ様がお呼びです」

「………わかった」

 

扉の向こうの者はそれだけ告げて部屋から離れていく。

リオンが再びマリアンのほうをみれば、彼女は少し困ったような表情をしていた。恐らく返答しなかったからだ。

少年は俯きそっぽを向くと「行ってくる」と告げて扉に手をかけた。

 

「行ってらっしゃい」

 

それでも、彼女は微笑んで暖かくそう返してくれた。

 

少年はまだ気付かない。

彼の真っ暗な世界には、たった一つの糸しか存在しない。

だが、そう思い込んでいるだけで、見えない世界に確かに存在するもの。

 

天秤の軋む音が近づく

 

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