割られた天秤 – 4

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カイルが気が付いた時、そこは先程まで見ていたあのヒューゴ邸の中と思われる場所だった。ゆっくりあたりを見回すと彼の仲間達が同じようにその場に立っており、そして、その表情は暗い。

恐らくカイルと同じく、エミリオの幸せがある歴史が壊れていく様を見たのだろう。

だが、実際はそれだけではなかった。

 

ヒューゴ邸の部屋と思われる場所、そのベッドの上に小さくうずくまる少年の姿を見つけてカイルは眼を見開いた。

 

「…ジューダス…?」

「……あぁ」

 

顔を伏せてしまっている為、黒髪しかわからない。

代わりにロニが答えた。

 

カイルの体が小さく震える。

ジューダスだという少年の体のあちこちに、痛々しい痣が浮き上がっていたからだ。

駆け寄り、蹲りピクリとも動かない彼を抱きしめ、手当てしてやりたい。

直ぐにも彼を癒して、助けてあげたい。

その思いのままに彼はジューダスへと手を伸ばしたのだが、その手はジューダスをすり抜けてしまった。

 

「…え?」

「だめよ。どうやら私達はこの世界に干渉できないみたい。ただ見ることしかできないのよ。私達はここに存在しない」

 

まぁ、そのほうが私達にとっては都合がよかったかもしれないけどね、と続けるハロルドの言葉をカイルは深く頭で考える余裕もなく、ただ触れることの出来ない幼い少年を見下ろす。

 

「誰が……こんなこと…」

 

そこまで言って、カイルはあの男の禍々しい瞳を思い出した。

ギリギリと自身の歯が軋む音を感じながらも、悔しさから力を抜くことをやめられない。

 

「…どうして………」

「……ジューダス、家から出てはいけないって言われてたみたいなの…」

 

それに対して、リアラが疲れたように答えた。

カイルがそっと彼女を見る。どうやら自分が気付くよりも前に彼女は眼を覚まし、ジューダスの様子を見ていたようだ。

続いてナナリーが片腕を握り締めながら言った。

 

「ジューダスを自分の息子と周りに気付かせたくないってさ…だから、家から飛び出した後、返って来たジューダスを……」

 

ナナリーはその続きを言うことはせず、唇を噛んだ。

だが、その続きがわからないほどカイルは馬鹿ではない。

カイルの胸にあの時の怒りがぶり返してくる。

 

「…っなんで!父親だろ!?」

「…………」

 

カイルの、この世界に響くことの無い叫びに、仲間達もまた眉間に皺を寄せて黙り込む。

畜生、とカイルが壁を殴ろうとするが、それすらもすり抜けていってしまう。

震える拳の行き先がなく、カイルは怒りに震えることしかできなかった。

 

「何で……、こんな酷いことができるんだ……自分の子供なのにっ!」

 

もう一度そう呟くカイルに、今度は答える者が現れた。

 

『父親ではない。』

 

世界が答えたような感覚。何処から聞こえてくるのか、世界全体が震えて奏でたような音声にカイルは天井を睨みつけた。

 

「エルレイン…」

 

このどうしようもない怒りを、エルレインにぶつけるように憎憎しげにその名を呼ぶ。

だが、カイルはすぐにそれがどうしようもなく惨めな八つ当たりだと気付いて俯いた。

エルレインがそんな彼をどう思ったかはわからないが、声色を変えることなく続けた。

 

『……あのヒューゴ=ジルクリストはエミリオ=ジルクリストの本当の父親ではない。』

 

「…どういうこと?」

 

リアラが眉を寄せてエルレインに尋ねる。

瞬間、ジューダスが居た部屋が歪んで消え、次にカイル達が出た場所はヒューゴの居る部屋だった。

カイルはその男を見つけた瞬間、反射的に彼を睨む。

 

―その男の足元にある剣を、よく見るがいい。

 

エルレインの声のままに、ヒューゴのほうを見る。

彼は今、他に誰も居ないこの部屋(恐らくヒューゴの部屋なのだろう)で椅子に座り分厚い本を読んでいた。

その足元、仕事机と思われるそこに隠されるように立てかけられている剣を見つける。

 

「……これ…は」

『これが、誰にも抗えなかった、神にしか抗えぬ悲しい運命の歯車だ』

「ソーディアン……ベルセリオス?」

「確か、ヒューゴが使ってたんだよな……でも、壊れてるはずだ…これがなんだってんだよ」

 

ロニが訝しげにそれを見ながら答える。

エルレインが何かを言う前に、リアラがそれを見て声を上げた。

 

「待って……何か変。このレンズ……1000年前に見たのと違う」

「え?そうなの?…俺には一緒に見えるけど」

「何か…力が違うの……気配とか」

 

リアラがいまいち分からないといった風に首をかしげながらもレンズを見つめる。

そんな中、ハロルドが大きくため息を付く。皆の視線は彼女へと集まった。

 

「……そういうこと……ね」

「ハロルド?」

 

彼女には珍しい悲痛な面持ちに皆首を傾げる。

ハロルドは重たいものを吐き出すように、それでも形はいつもの説明のように話し始めた。

 

「おかしいと思ったのよ、此処に来て、全部本読んで」

「…何が?」

「空中都市郡、ダイクロフト、ベルクラント……普通あんな戦争が起きた後なんだもの。私だったら処分なり封印なりするわ。実際地上軍でも戦争が終わってすぐにその話が持ち出されていた。私はあんた達に付いていくから放置してきちゃったけど」

「……それで?」

 

カイル達は首を傾げた。

それらが封印されていたことは知っていた。だがそれを復活させたのがヒューゴで、そして神の眼の騒乱は始まったのだ。何がおかしいのだろうか。

 

「あの城の本を全部読んだって言ったでしょ?その本には、天地戦争なんて神の眼の騒乱が起こる当時までは本当に天と地に別れて行われた戦争ではなく、例えとして用いられたと考えられていた」

「…あぁ、そうだな…まさか空にもう一つ地上が出来ていたなんて誰も思わなかった」

 

それをおずおずロニが肯定する。

ハロルドはそれに対し「ね?おかしいでしょ?」というが、やはりまだよくわからなかった。

天才はため息をついた後、また続ける。

 

「本当のことを全て知っている者なんて当時は居なかったはずよ。神の眼についても神殿の一部の人間と王くらいしか知らなかったそうじゃない。置かれている場所だけでなくその存在自体のことが」

「えっと……でも、…あれ?」

「例えヒューゴがどれだけ知識を持っていたとしても、裏で様々な情報取引をしたとしても、それら全てを復活させることが出来るなんて…ちょっと非現実的じゃない?」

 

言われて見れば、そうかもしれない。

今まで考えたこともなかった。ただ過去に起きた事として当然のように受け入れていた。

 

「ま、下準備をそれだけ頑張ってたっていうのもあるかもしれないけれど、そんなものよりとってもわかりやすい真実が、今目の前にあるのよね」

「…え?」

 

ハロルドの視線はベルセリオスにあり、カイルは首を傾げる。

 

「………ミクトラン……なのね」

「え、どういうこと?」

「ソーディアンベルセリオスに、あの時…兄貴と刺し違えた時に、人格を投入した」

「な、そんなことできるのかよ!?」

「ミクトランは天上で様々な実験をしていたわ。たとえば、人を生き返らせる術とかね。元々ソーディアンはマスターの人格を入れた剣。出来ないこともないでしょ」

 

カイルはごくりと唾を飲み、目の前のソーディアンを見下ろした。

もしも彼女の言うとおりならば、今目の前に、あの天上王が居るのだ。

 

「これで全て筋が通る。ソーディアンとマスターの精神は繋がる。そのマスターの精神をミクトランが封じたとしたら……ヒューゴの突然の人格変異も納得ね。つまりはあの世界はヒューゴからベルセリオスを奪ったことで作られた。そしてこの正史では、ヒューゴの体を乗っ取ったミクトランが、天地戦争を再び起こした。……違う?」

 

ハロルドが一通り推察を終えた後、見えない相手に向って尋ねる。

 

『その通りだ』

 

エルレインの肯定の言葉。

それらのとんでもない真実に、カイルは心臓が己の体を叩いているような痛みを感じた。あの時代の、エミリオが愛していた家族。ヒューゴこそが、本当のヒューゴ=ジルクリスト。息子を想い、世界を想う暖かい人。

 

「…じゃあ、……ヒューゴはずっと……操られて……自分の、子供を…」

『…そう、それが…本当の悲劇の歴史』

 

カイルは泣き叫びたくなった。

その親子の痛みを感じて、そして真実を知ることなく彼らを罵り続けた自分達の浅はかさに。

どれだけ苦しいだろうか、どうしようもない理不尽な世界で、それでも懸命に生きたというのに、死した今も汚名を受けて罵られるというのは

ジューダスと、そしてヒューゴの思いを考えれば考える程に胸が焼け焦げそうだった。

 

『…そう、それが……本当の悲劇の歴史。…お前達はそれらをとくと見るがいい。神に逆らわなければ、このような悲劇など簡単に消せるというのに』

 

嘆くようなエルレインの言葉に、カイルはぴくりと肩を震わせる。

 

「………それ、でも……」

 

それでも、カイルは自分達の大切な物が無くなった世界を受け入れることはできない、してはいけない。だが、その想いも口からは弱弱しく呟かれる。

 

『……見続けるがいい。真実を…抗えぬ運命を』

 

エルレインの疲れたような、哀れむような、そんな声が聞こえてきた。

その言葉に答えるように、また場面は移り変わり、一度視界が真っ白になる。

 

 

少年が見てきた世界……酷い世界だった。

 

閉鎖された空間の中。狭い世界。父親の皮を被ったそれに叩きつけられるのは闇ばかり。ミクトランはまだ幼い彼をすでに道具として世界の裏側へと引きずり込んだ。

 

それらはどこまでも少年を追い詰め、苦しめ、歪ませ、傷つけた。

まだ幼い少年が、人の醜さを見つめ、それを利用することで生かしてもらえるという事実に、カイル達は唇を噛むことしかできなかった。

 

唯一の救いといえば、彼が持つソーディアン、シャルティエの存在だろう。

エルレインが見せている世界の為か、此処ではマスターの素質の無いロニ達でもソーディアンの声を聞くことが出来た。

 

醜い人間達の中で、彼だけが少年の味方だった。

 

自分達の世界では、すでにジューダスが失ってしまった唯一無二の存在。

その絆の深さに、また胸が軋む。

 

少年はそれでも、必死にシャルティエに縋りながら、生きていた。

 

この頃、リオンと名を変えられた少年は12歳。

……まだまだ、幼い、大人に甘えるべき少年だった。

 

そして、ヒューゴ=ジルクリスト。

どうにも、まだ時々人格が戻る時があり、ミクトランの人格と葛藤する。

その様子までも、エルレインは全て見せ付けてきた。

本来ならば聞こえないだろうヒューゴの悲鳴が聞こえてくる。

自分の子を傷つける己の体への絶望。

 

知らずに罵ったことのある自分を、カイルは憎むと同時に羨ましくも思う。

何も知らずに、そうしていられたならば、そんな考えが過ぎる程に悲しい歯車だった。

それでもカイル達は、眼を逸らしてしまうことはあっても、少年の下に居続けた。

たとえ少年からは見えなくても、孤独な仲間の隣にずっと居てやりたい。そう思ったから

 

「…………父……さ……」

 

ふと、一人自分の部屋のベッドでいつものように体を丸めていた少年が、僅かに空気を震わせて呟いた。

禁じられた言葉。その言葉に返って来るモノなど何も無い。

少年の眼は曇る。

 

『……坊ちゃん』

 

シャルティエが気遣わしげに話しかける。

今まで、こうして父を想う事はあっても、その言葉までも呟くことはなかったからだ。

だが、少年は愛剣の声に耳を傾けることなく、ふと部屋を見回した。

 

「………シャル、母さんを…知っているか」

 

少年の言葉に、そういえば…とカイルも首を傾げた。

断片的に流れるジューダスの今までの中、この屋敷にて彼の母親らしき人物を一度も見たことがないからだ。

 

『えぇ、少しならわかりますよ』

「……どんな人だった?」

 

過去形。つまりはもう母親はここには居ないのか。

 

『坊ちゃんは母君に似ておられます。同じ黒髪に、アメジストの瞳。………よく、坊ちゃんに子守唄を歌っておられました』

 

優しげに呟かれるシャルティエの言葉に、母親はきっと暖かい人だったのだろうと思う。

それは少年も同じだったようで、俯いて黙り込んだ。

それからしばらくして、少年はゆっくりとベッドから降り、シャルティエをつれて部屋から出た。

 

彼が自由に動ける場所は限られている。

そんな少年が辿りついたのは、ヒューゴと少年の関係を知る数少ない一人の人物のところだった。

 

「レンプラント老」

「…おや、坊ちゃん。いかがされました?」

 

本棚が立ち並ぶ部屋に居たのは一人の老人。

主に少年の教育係として彼と接していたレンプラントは、突然リオンが現れたことに少し驚いたようだ。

 

少年はゆっくりレンプラントの前まで来ると、怖ず怖ずと尋ねた。

 

「……その、…母上の……何か、残っているものは無いのか」

 

突然のその言葉に老人は息を呑む。

だが、少年がそのことを知りたいと願うのは至極当然なことであり、レンプラントは眉を寄せる。ヒューゴ=ジルクリストにそれらの口止めを喰らったことはないが、余計なことを話せば彼の機嫌を悪くするのは眼に見えている。

 

「………坊ちゃん…」

 

そっと呼べば、少年の視線は下がっていった。

まるで咎められる前のように。ただ、親のことを聞いただけだというのに。

 

それに心を痛めたのはカイル達だけでなく、目の前の老人も同じだったようで、彼は少年の目線に合わせるように屈みこむと、皺を寄せながら微笑んだ。

 

「……坊ちゃん。ヒューゴ様には内緒ですぞ?」

 

その言葉に少年の目は大きく開かれ、一度ゆっくりと頷く。

 

「少々お待ちください」

 

そう言って、レンプラントは部屋から出て行った。

老人の帰りを待つ少年はシャルティエをそっと握り締める。

 

やがて帰ってきた老人の手には一つの箱。

レンプラントがそれを机の上に置くと、少年は駆け寄りそれを見る。

ゆっくりと老人の手で箱の蓋が開けられ、そこから出てきたのは金色に光る物と、その下にはリオンの身長からよくは見えないだろうが写真があった。

 

「……これは?」

「イヤリングです。母君がつけておられました」

 

レンプラントはそっとイヤリングを持ち上げると、小さな手の上に乗せる。

少年はそっと片方の手でそれを撫で、自分の顔を映すイヤリングを見つめた。

その様子を見ながら、レンプラントは写真を手に取る。

 

「そして、これが…」

 

ゆっくりと目の前に持ってこられる一つの紙を、リオンはイヤリングをその手に、食い入るように見つめた。

 

「坊ちゃんの、母君ですよ」

 

少年の目の前に出された写真は小さく、カイルは少年の横に立って写真を覗き込んだ。他の仲間達もカイル同様少年を囲むように写真を見る。

 

映っているのは長い黒髪の美しい女性。そしてその腕には小さな赤ん坊を抱いている。

 

「うわぁ……美人だな」

「……ロニ、人妻……」

「ロニ……」

「素直に感想を述べただけだって!」

 

軽蔑の視線がロニに向う中、ハロルドはその写真に目を細めた。

写真の片隅に浮かぶ番号は恐らく日付。

だとするならば、この赤ん坊は目の前の少年ではないのだ。この日付の時には、まだ少年は生まれてもいないはず。

 

初めて見る母親の姿に目を奪われていた少年もその事に気付いたようで、顔色が変わった。

 

「…………抱いているのは?」

「…え、…これは……」

 

少年の暗い口調から、この赤ん坊が自分ではないと気付いたのだと察したレンプラントは慌てる。

 

「これは!?」

 

少年の怒鳴るような、縋るような言葉に、レンプラントはため息を付いた。

まったく、この少年は賢い。それがまた、悲しいとも思った。

 

「………坊ちゃんには、姉君がおられたのですよ」

「姉…さん?」

「はい」

 

進む二人の会話にカイル達も写真の赤ん坊に気付いたようで、またそれを孤児院にいたという姉の存在にへと結びつけた。

 

俯いた少年は、搾り出すように一言尋ねた。

 

「……どうしたんだ」

 

レンプラントはしばらく黙っていたが、やがて

 

「……跡取りは、男の子ではないと、いけませんでしたから」

 

それだけ言った。

少年が俯いたまま一瞬眼を見開いたのが、隣に居たカイルにはよく見えた。

その眼をすぐに伏せると、少年は

 

「…………そう」

 

と答え、ゆっくり顔を上げてもう一度写真を見る。

 

「……名前は…?」

 

老人は目を細めて答えた。

 

「………クリス様とルーティ様です」

「え……ルーティ?」

 

カイルは驚き呟く。ロニも眼を丸くしている。

まさか、という思いが強い。同じ名前だけなのではないだろうかと。

 

そんなカイル達の感情を待つことはなく、時は進む。

少年はそっと写真に手を伸ばし、触れるか触れないかのところでその手を止めた。

アメジストがそっと老人を見る。

 

「……これ、」

「かまいませんよ」

「え…?」

 

また恐る恐る尋ねた少年の言葉を待つことなく、老人は優しく微笑みそう言った。

彼は少年の目線にあわせるよう屈むと、癖のない黒髪を撫でる。

 

「持っていらしてください。ただし、ヒューゴ様に見つからぬように………クリス様は、ルーティ様も坊ちゃんのことも、大切にしておられましたよ」

 

少年はその言葉に眼を開き、泣きそうな顔になった後、破顔した。

 

「………ありがとう」

 

久しぶりに見る少年の笑顔だった。

仲間達も思わず表情が崩れる。

 

少年はとても大切そうに写真とイヤリングを小さな両手で持つと、レンプラントに頭を下げて部屋から出た。

老人はその姿を微笑みながら見ていたが、扉が閉まるとため息を付いて少年の孤独に眉を寄せる。

それを見た後、カイル達は少年を追った。

 

部屋を出、扉からそう離れていないところで、両手の中にあるものを見つめ立ち止まっている少年を見つけた。

イヤリングを握り締め、写真の中の人物をじっと見つめている。

 

『………坊ちゃん』

 

彼のソーディアンがそっと話しかけたが、少年の眼は写真から離れない。

それを構わず、ソーディアンは優しい声で続けた。

 

『子守唄。とても優しい声だったんですよ』

 

少年はこくりと頷いた。

頭が下がると同時に、雫がぽとりと足元に落ちる。

リオンは腕で目元を拭うと、もう一度写真を見つめた。

 

「……クリス=カトレット……………ルーティ……カトレット……」

 

レンプラントから聞いた名前と、今は使われることのないファミリーネームを繋げる。

少年は写真を自分の胸へと伏せ、自室のほうへと歩いていった。

 

本来ならば、まるで背後霊のように少年を追うカイル達なのだが、今は眼を丸くしたまま立ち竦む。

これでもう、ただ名前が偶々同じだったなんて事にできないのだ。

 

「………どういうこと?」

「やっぱりねー道理であいつクレスタへ行くのを嫌がってたわけだ」

 

カイルが呟くのに対して、ハロルドは納得したと頷き言う。

ロニもまた、既に驚きは消え、ハロルドと同じように納得したような顔をしていた。

 

「なるほどな……ルーティさんはあの孤児院で育った……」

 

その後、彼はぼそりと「護れなかった弟って、ジューダスのことだったのか」と呟く。

ルーティが、自分の弟について語った時の様子を知るたった一人であるロニは、胸がどうしようもなく痛むのを感じた。

 

「そっか…なんか、ジューダス母さんと似たところあるかもって思ってたんだ」

「………あぁ、そうかもな」

 

あの世界では、エミリオとルーティは本当の姉弟として仲良く、幸せに暮らしていたのだろうか。……きっとそうに違いない。

 

仲間達は改変された世界と、そしてこれから起こる正史を思い、彼らから自然と言葉が消え、沈黙が降りた。

 

 

 

この日、珍しく少年は日の高い時に外に居た。

木々が立ち並ぶ森の中、一本の道が開けられているが、彼はそこに立つことなく、木々の中に紛れている。

そっと愛剣の柄を撫でる彼の横に、カイル達は佇んでいた。

 

ヒューゴから少年に課せられた任務は、王族に恩を売ること。

冷たい口調で、無感情に出される計画を、少年も同じく無感情に聞き、頷いた。

 

カイルは緊迫した空気の中、拳を握り締める。

リオン=マグナスとヒューゴ=ジルクリストは手を組んだとばかりに思っていた。

彼らがどんな思いを持っていたかなんて、一度も考えたことがなく、ただ本に書いてある言葉をそのままに受け入れていた。

だが、たった16歳の少年は、最初からヒューゴの手駒として生きなければならなかったのだと、その真実の欠片の一つがまた、今目の前に広がろうとしている。

 

しばらくすれば馬車の音が聞こえてくる。

少年が気配を消す中、森がざわめき始めるのを感じた。

森の中に姿を隠していたのは少年だけではないのだ。

 

木々の間から豪華な馬車がゆっくりと姿を現す。

辺りに居るのは護衛の兵。

そんな中、車を引く馬へと向けられた武器が木々の間から漏れた太陽の光に鋭く光った。

 

ヒュンッと空気を裂くような音の次に、馬の悲鳴。同時に静かだった森に悲鳴や怒声が響き渡った。森は更にざわめき、小鳥達が逃げ出す。

兵士達は必死に馬が暴れだすのを必死に押さえようとする。

 

「な、何者だ!」

 

そんな中、一人の兵士が怒声を上げる。

答えるように草を掻き分けぞろぞろと現れたのは柄の悪い男達。

 

全てが予定通り。

護衛の兵に対してあまりにも数の多い奇襲に兵士達は顔色を悪くする。

それを遠くで見ていた少年はそっとシャルティエの柄に触れた。

 

追い詰められた王族の馬車。奇襲をかけた一人の男が品のない笑みを浮かべながら車へと足をかけ、中を暴く。

女性と思われる引きつった声が響いく。これが合図。

リオンは柄を握り動いた。

詠唱をしながら馬車のほうへと走る。突如現れた少年に驚き目を見開く男達に少年は晶術を放った。

 

ソーディアンの力を目にするのはこれで何度目だろうか。

とても一人の少年が力を振るったとは思えない。

馬車を襲った者たちは全員、息をしていなかった。

 

誰も見たことのない晶術の力。ヒューゴに叩き込まれたとはいえ、天才的な剣技。

ソーディアンはオリジナルの本人達が使わないと100%の力は発揮できないらしいのだが、少年はその小さな体には十分すぎるほどの力を持っていた。

 

だが、だからこそに恐ろしかった。

一人も息をせずに倒れている者達と、そこに佇む少年が

 

全てが、台本通りの舞台であり、裏にはミクトランという誰も気付かぬ存在がカラカラと歯車を回して笑っているのだ。

 

馬車に奇襲をかけた彼らは、ヒューゴが金を使って作った駒だった。

 

金を支払い、王族の馬車を襲えば更に金を払うといえば、男達は簡単に飛びついた。

彼らに日時、場所を伝えてからヒューゴはくつくつと顔を歪ませてリオンの前で笑った。

 

「くくく……金をやれば馬鹿みたいに跪く。……後はあれが襲うのをお前が殺せばいい。逃すな。情報が漏れる」

「かしこまりました」

 

裏の世界というものからは程遠く暮らしていたカイルにとっては、どこまでもおぞましい会話だった。リアラも同じようで、今でもカイルの腕にそっと縋っている。

劇は今も続いている。

 

車から出てきた女性は、先程まで恐怖で震えていただろう体を歓喜に震わせ、少年の下へと寄った。

 

「おぉ……っ助かった…。そなた、名は何と申す!?礼をせねば」

「リオン=マグナスと申します」

「リオンか、その歳でなんと美しい剣技よ。それより、あの妙な技はなんだ?いや、とにかく城へ行こう。そこで話を聞かせてくれまいか?」

「ありがたき幸せ」

 

王族の前に肩膝を付いて頭を下げる少年の姿は実に様になり、とても美しく劇の序章を締めた。

観客は、拍手をすることも出来ずただ消えていく点灯と生まれる闇を見つめていた。

 

女性は王妃であったらしく、王は王妃を救った少年とその未知なる力に大層関心を持った。少年が親兄弟は居ない、あてもなく旅をしていたと言えばすぐに城の剣士に、と簡単に台本どおりに話が進んでいった。

そして、この劇の舞台には、この台本を書いた人物も座っていた。

 

ヒューゴ=ジルクリスト。カイル達の世界では神の眼の騒乱を起こした首謀者としての名のほうが有名だが、当然今はまだ起こっていない此処ではオベロン社の総帥としての名で居る。

ソーディアンという存在は中々王族の者でも調べ切れていないようで、レンズについて詳しいヒューゴに自ずと視線が向いた。

 

王、王妃からの質問に受け答えするヒューゴを、少年は無表情で見ていた。

カイル達には今の少年の想いは計り知れない。

全てが計画通りに進み、まるで別人のように少年が知るヒューゴとは全く違うヒューゴが目の前に居る。

 

「――になりまして、えぇ、素質がなければ扱えないのです。ソーディアンには人格が埋め込まれていまして、話すこともできるのですが、その声も素質の在る物にしか。そうだね?リオン君」

「……あ、……はい」

 

話を振られた瞬間、リオンは唖然とし、急いで答えた。

その反応を周りはただ緊張しているものだろうと特に気にせず、ただ好奇心のみを浮かべる。

 

「ほう……なんともまぁ不思議な……今ソーディアンは喋っているのか?」

「いえ……シャル。喋ってみろ…」

『いいですけど、何って言ったらいいのか…もういいかな?』

 

カイルは先程の少年の反応に心配になり、軽く少年の顔を覗き込むのだが、それ以降、少年が表情を崩すことはなく、無難に答えたシャルティエに続き必要最低限だけ話した。

 

「……ジューダス、どうしたのかな……」

「………」

 

カイルの言葉に答える者はいなかった。

だが、ハロルドはいつもと同じような顔に見えて、不機嫌そうだった。

 

「彼には私のところに来てもらいたく…。是非ともソーディアンの研究を我が社にお任せ願えないでしょうか」

「ふむ……そうだな。彼は実に優秀な剣士だ。頼んだぞヒューゴ」

「かしこまりました」

 

こうして、全てが台本通りに、ある程度リオン=マグナスとヒューゴ=ジルクリストが関われる状態で、少年は城へと入り込んだ。

会話はそれで終わり、頭を下げた後、ヒューゴは少年に手を差し伸べて薄く笑った。

 

「よろしく頼む。リオン君」

「…はい」

 

少年はその手を握ったが、ヒューゴの顔を見ることはなかった。

 

ヒューゴ邸についた少年に宛がわれた部屋は、今まで使っていたものではなく新しいものだった。これからは隠れて過ごすことはない。当然といえば当然。

 

少年は部屋の明かりをつけることもせず、徐に靴を脱いで新しいベッドの上に座る。

そして、そっと服に入れていた写真とイヤリングを取り出した。

レンプラントからあの日もらった、少年の掛け替えの無い物。

いつもは部屋に隠し置いていたのだが、今回だけは持って出ていた。

 

この歳で此処まで頭が回るとは、さすがジューダスと言わざるを得ない。

カイルだったら泣きながら前の部屋に行こうとしていただろう。

 

イヤリングはベッドの上に置き、写真をそっと持ち上げる。

しばらく左手で写真をなぞっていたが、やがて少年は突然力がなくなったように写真ごと手を下ろした。

ベッドの上に力なく投げ出された手に握力はなく、しばらくした後、手はまたあがるが、写真はベッドの上に置いてけぼりになった。

 

再び持ち上げられた腕を、少年は自分の体を護るように抱きしめ、狭くない部屋で小さくなる。顔も腕に伏せてしまい、彼の表情を見ることはできない。

だが、小さくなった体は僅かに震えている気がした。

 

関与できないとわかっていても、カイルはベッドの上に小さくなった少年の前に腰を下ろして、そっとその頭や背を撫でる。

とはいえ、触れることは叶わないのでフリでしかないのだが、カイルなりに眉を寄せて一生懸命だった。

 

「ジューダス、どうしちゃったのかな……」

「………怖いんだろ……」

 

カイルの言葉に、ロニが重々しく答える。

ナナリーもつられて頷き、少年の傍に立つ。

 

「今までは、あれだけ言われても、それでも、まだ口だけだった。でも、今度からは社会的に……ジューダスはヒューゴと他人で居続けるんだ。部屋がかわったように……此処はもう、家とは呼べないんだよ……きっと」

 

ナナリーの言うことは、カイルは少し難しくて完全に理解できなかったけれども、それでもなんとなくはわかった。

城の剣士候補であるリオン=マグナスに向けたヒューゴの顔は、他人だったのだ。

 

小さくなってから一度も動かないリオンの時を動かしたのは、突然鳴ったノックの音だった。

びくりと肩を震わせ、少年は急いでイヤリングと写真を枕の下に隠し、ベッドから降りて靴を履くとノックに答える。

 

「……はい」

「リオン。お前にメイドをつけた。挨拶を済ませておけ」

 

先程まで聞いたのとはまったく違ういつもの冷たい声はそれだけ言うと扉を開けることもなく、気配は消えていった。

リオンはそっと扉を開ける。

明かりのない部屋に廊下の光が差し込み眩しかった。

 

「失礼します」

 

そう言ってぺこりと頭を下げながら微笑を浮かべ入ってきた一人の女性。

部屋に明かりがついていないのに気付いて軽く首を傾げた女性は、少年に「明かりをつけても?」と聞き、少年は唖然としたままコクリと頷いた。

 

暗い中でも何となくわかっていたのだが、明かりが付けば女性の顔は確かになる。

 

「初めまして。これからリオン様の身の回りのお世話をさせていただきます、マリアン=フュステルと申します。よろしくお願いします」

 

にっこりと笑った顔は、先程見た写真の中に居た人物と瓜二つで、少年は挨拶を返すこともできず、ただアメジストは女性の顔を映し続けた。

 

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