割られた天秤 – 6

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少年は少し俯き加減に、いつも静かなヒューゴの私室へと繋がる廊下を歩いていた。

恐らく、考えているのはマリアンとフィンレイの言葉。

頼っていいのだという、彼らの言葉に対して、どう行動していいのか。

 

「素直に頼っちゃえばいいのに………」

 

ぽつりと呟くカイルの言葉は、ジューダスへと向けられたものでもあった。

だが、ハロルドは無表情に「難しいわね」と答える。

ナナリーもこくりと頷いた。

 

「きっと、頼り方がわかんないんだよ……ずっと今まで、シャルティエと二人っきりでいたんだから。それでも、マリアンには随分と心を開いたようだけどね」

「………全てを話すには、あの子にとってマリアン=フュスティルは他人すぎるのよ。そして、ヒューゴが…近すぎる」

 

ナナリーとハロルドにそう言われ、カイルは不機嫌そうな顔で、しかし反論することなく少年のほうへと視線を戻した。

それでも、もっと頼ってほしい。

 

「しかし、今回の呼び出しはなんなんだろうな」

「…………。」

 

ロニが雰囲気を直すように気楽に呟く。反対にリアラは黙り込んで俯いた。

 

なんだか、嫌な予感がしたのだ。

「お呼びでしょうか、ヒューゴ様」

 

人払いのされているヒューゴの私室。

そこでいつものようにリオンはヒューゴの足元にて頭を下げていた。

 

それは一般的な家族にとっては異常だが、彼らにとっては日常で

そんな当たり前の世界の中、それは何の前置きもなく、当然のように下された。

 

「フィンレイ=ダグを殺せ」

 

長い、沈黙が降りた。

 

言葉が、意味が、頭の中に入ってこない。

カイル達にとっては、2度目の経験。少年から名を奪った時のような、その感覚。

 

だというならば、これは、少年がまた奪われる、その瞬間だ。

 

幾度かヒューゴの命令により、少年は城で暗躍したことがある。

ただ、それが当然のように、少年は受け入れてきた。

 

だが、今回は

 

「……おい、おい……」

 

ロニが信じられないように誰にともなく呟く。

カイルは言葉も出ず、ただその場で固まるしかなかった。

 

「……どうした」

 

返事をしない少年に、ヒューゴの更に冷たい言葉が降りてくる。

リオンは、僅かに体を震わせながら目を見開いていた。

 

少年の何処までも揺れる心が、まるでその振動で音を奏でるように、カイル達に伝える。

まるで彼の持つソーディアンシャルティエの声のように。

恐らくそれほどまでに少年は動揺しているのだ。

 

(……どうし、たんだろうな……)

 

それは少年自らの動揺に対しての疑問。

そして、僅かな自嘲が含まれていた。

 

(そう、いつものことだ。僕は、いつだって言われるがままに、殺してきた。いつだって、覚悟を決めていた……フィンレイ将軍も、関係のない、人間で)

 

言い聞かせるような心情が伝わり、カイルは息をするのも忘れて固まっていた体のうち、眉をぐっと寄せる。

 

関係のない人間などと、思っているわけがない。

だからこそ今、少年はこんなにも震えているのだ。

既に、彼にとってフィンレイとは、暖かく声をかけてくれた、信頼できる上司なのに

 

「リオン」

 

再び冷たい、だが先ほどよりも威圧感ある声が響き、びくりと少年の肩が揺れる。

 

「……フィンレイ=ダグを殺せ」

 

もう一度、同じ命令が下された。

ヒューゴは酷く不機嫌そうに少年を見下ろしていた。

当然だ、いつだって彼はリオンを自分のいいなりになる道具として使ってきたのだ。

 

だが、少年は道具になど、なり得ない。

だって、彼には心がある。

きっと、あの時マリアンがこなければ、この命令を動揺なく受け入れただろうが、マリアンが来たことによって、少年は人間らしさを取り戻した。

 

だから

 

「……どうして、ですか」

「………何?」

 

ヒューゴが更に表情を険しくした。

彼がヒューゴに反抗するのは、これが初めてだ。

 

リオンは震える手を握り締めながら、必死に目の前の男と、恐怖と戦う。

その様を、仲間達は固唾を呑んで見守った。

元より見守ることしかできないが、今では動くことすらもできない。

 

「貴方は、貴方は……何を、しようとして……」

「リオン」

 

少年の必死な言葉に対する男の声は、ぞっと寒気のするようなものだった。

 

……これは、殺気だ。

 

「リオン=マグナス。お前は、私の駒だと、前に言っただろう」

「…………っ」

 

冷たさを通り越し、痛みとなる言葉に、リオンは唇を噛んで震えた。

それでも、命令に対して答えないリオンに、ヒューゴは更に表情を歪める。

 

「………ちっ、駒ごときが」

 

カイルの握った拳が大きく震えた。

だが、動けない。

此処はあの時のように、干渉できる世界ではない。

どうしようもない思いだけが心を震わせ、体を硬直させた。

 

しばらく、また冷たく長い沈黙が降りた。

だが、やがてその静寂を破ったヒューゴの声は、先ほどより威圧あるものではないが、酷く酷く、冷たく残酷なものだった。

 

「…あの、女か」

「…え」

 

嫌な感じがした。

リオンも俯いていた頭を持ち上げる。

 

くつり、とヒューゴが笑った。

 

「くくく、そうだ、そうだな。道具は何も必要ないが人間を言いなりにするには対価が必要か。…だが、お前は金が欲しい人間ではない。くくくくくくくくく」

 

至極愉快そうに笑うヒューゴに、ただ恐れしか沸かなかった。

そう、わかってしまったのだ。次に彼が言う言葉を

仲間達も。……少年も。

 

「マリアン=フュステルの命。……欲しいであろう?」

 

ガクンッと世界が傾くほどの衝撃が走った。

僅かに震えていたリオンの体が、恐怖すら忘れてしまったかのように硬直した。

 

衝撃の余震が終わった後、世界は完全に止まった。

 

カイル達の感じているこの世界という空間は、恐らく目の前の少年と繋がっている。

そして、少年の思いをカイル達に伝えるのだ。

 

その世界のどこからか、音が聞こえ始めた。最初は遠い、だがやがて少しずつ強くなって聞こえてくる音。

世界が、鼓動を打つように断続的に何かを呟いている。

 

(……と、……ないと、…守らないと、…守らないと、守らないと、守らないと……っ!)

 

それ以外の思いは全て忘れてしまったかのように、壊れてしまったように呟き続けるそれは、そのまま、少年の思いの強さだった。

 

だが、

 

「守れるのか?」

 

まるでその思いを読み取ったかのような冷たいヒューゴの言葉に、断続的に続いていた音がピタリと止む。

ヒューゴが片方の唇を上げ、見下ろしながら、更に言った。

 

「お前が、守れるのか?私に、勝てると?お前ごときが?」

 

カタカタと少年の体が再び震えだした。

真っ暗な世界の中で、とうとう少年は見つけてしまった。

少年の、小さな小さな天秤を

 

初めて揺れた、小さな天秤を。

初めて両手に持った、重み。

左には憧れの人。右には、大切な人。

 

そして、上空には、絶対に抗えない人。

 

上空の者は言う。

両腕の重みを、たかがお前一人で守れるか?

その小さな体で守れるか?……この、私から

 

………無理だ。

 

ならば、選べ。

 

天秤が、揺れ始める。

天秤が揺れる音がする中、少年は最後に尋ねた。

どうして、この二つが揺れるのだろうか。

……どうして、右に居る人は……。

 

「……な…んで……だ、って」

「何がだ?」

 

何を感じることもなく、無表情に、冷たく返す男に、少年は言葉を失う。

 

フラッシュバックするように、写真が脳裏に映る。

それはカイル達の中にも入り込む。

 

優しそうな、黒髪の女性。彼女が大切そうに抱く子供。

 

その写真は、彼が持っているものではない。

素朴ながらも、綺麗な、写真立てに飾られたもの。

目の前の冷たい男の、寝室に飾ってあるもの。

 

「それとも、いらなかったか?」

「………」

 

男の言葉は何処までも冷たい。

 

「これが最後だ。選べ、リオン」

 

 

 

カイル達は動くことができなかった。

いつものように彼の後ろをついて歩くことができなかった。

多分、ハロルドなら動けたかもしれないが、彼女はただ無表情に仲間達と共にその場に残っていた。

 

たとえ衝撃の大きさに違いはあれど、これから少年が刻む歴史を見たくないという思いは、きっと同じだ。

 

だが、そうしていても、無常にも場面は切り変わった。

エルレインに怒りの言葉を向ける気力もない。

『坊ちゃん……どうするんですか、坊ちゃん……本気ですか?』

「…………」

 

私室へと向うリオンに、シャルティエが話しかけるが、少年は俯いたまま答えない。

 

『坊ちゃん………フィンレイ=ダグは……』

 

尚も言葉を続けようとしたが、シャルティエはそこで口を閉ざした。

フィンレイの名前を出した瞬間、少年の心が砕けるのではないかと思う程に揺れたからだ。

 

シャルティエはどうしようもない、怒りや悲しみ、憎しみを抱き、口を閉ざした。

きっと、まだ少年は、フィンレイ達に頼れる程の強さをもてない。

何より、希望の糸を、手放すことができない。

それがわかってしまったから、シャルティエにはもう、どうしようもなかった。

 

そうこうしている間に、リオンは私室へと戻った。

 

「あ、おかえりなさい」

「ただいま」

 

笑顔で迎えたマリアンを、リオンは直視することができなかったが、それでも笑顔で返した。だが、それは仲間の誰もがわかる、貼り付けた笑みで、それに気付いたのは彼女も同じだった。

 

「どうしたの?エミリオ」

「……何が?」

「気分悪い?大丈夫?」

 

そう言ってマリアンは近づく。

簡単に笑顔をはがされたリオンは俯いた。

 

「……エミリオ?またヒューゴ様に叱られたの?」

「…別に、違う」

「エミリオ……」

 

そっと少年の肩に手をかけ、マリアンは俯いた彼の顔を覗きこむ。

 

「ねぇ?辛いことがあったなら頼って。もしもお城でのことなら…きっとフィンレイ様が助けてくれると思うの。……だから、ね?」

 

その優しさは、今の少年にとっては痛みにしかならなかった。

 

「………ごめん」

 

唇を噛み、搾り出すように吐かれた言葉は苦痛に塗れていて、マリアンは目を見開き、少年の顔を凝視する。

何かを堪えるような少年の姿に、マリアンは眉を寄せ、宥めるように彼の黒髪を撫でた。

 

「エミリオ、謝らなくていいのよ。私のほうこそごめんなさい。無理に問い詰めるようなことしちゃって………。ただ、頼りたくなったらいつでも頼っていいのよって、それだけ言いたかったの」

「……うん…………………ごめんなさい」

 

とうとうリアラは涙を流し、カイルの腕に縋った。

嗚呼、この少年は、独りで抱え込むつもりなのだと。

 

「………エミリオ…謝らなくていいの」

 

マリアンは困ったようにもう一度そう言った。

少年は視線を更に下げる。

 

「……だけど、僕は……マリアンが優しくしてくれるのに、答える術がないから」

 

マリアンは一つ息を吸い、そして吐くと、そっと微笑む。

 

「ごめんなさい、じゃなくて、ありがとうがいいわ」

「…………?」

「それで、十分よ」

 

途方にくれたような表情で首を傾げる少年に、マリアンは優しく囁きかけた。

 

「………あり、がとう」

 

少年はゆっくりと、そう呟いた。

そうすれば、マリアンはまた、にっこりと笑った。

ただいま、と言った時のように。

 

リオンは、寂しそうに微笑んだ。

 

(あぁ、僕はとんでもない嘘つきだ)

 

少年の声が、聞こえてくる。

 

(だけど、だけれども……それで彼女が、少しでも笑っていてくれるというのならば)

 

彼は、もう、……選んでいた。

 

場面が移り変わる。

 

とても静かだ。

カーテンの隙間から僅かに見える風景から、そこが城の一室だということがわかる。

だが、それにしては妙にシンプルな部屋。

最低限の装飾と、2つの机、1つのテーブル。

夕日がすでに落ちそうだった。カーテンの隙間から入り込む光は赤い。

 

そんな、少し寂しい部屋で、少年はシャルティエを腰にもったまま、一人、テーブルの横に佇んでいた。

テーブルの上には、二つのカップ。入れたての紅茶。

 

少年は、瞳に絶望を浮かべながらも、無表情のままに、そのカップの両方に、右手に持っていたものを、落とした。

それが何かなど、カイルですら理解できて、ポトンと鳴る音が、今はどこまでも残酷な時を告げる合図だった。

 

「リオン」

 

同時にその部屋の扉が開かれる。

入ってきたのは、

 

「……フィンレイ様」

「どうしたんだ?お前がこんなところにいるの、珍しいな」

「…少し、考え事を」

 

自然と話しをする二人を、カイル達はただ眺めた。

二つのカップ。中に入った紅茶が赤く揺れている。

それを見て、フィンレイが目を細めた。

 

「紅茶、お前が入れたのか?」

「えぇ」

「2つ」

「はい」

「……頂こう」

 

くすりと笑うフィンレイに、カイルは青ざめる。

 

「フィンレイ様」

 

まるで止めるように、リオンの声があがる。

フィンレイはリオンが佇むその場所の向かいにある椅子を引きながらリオンのほうへと顔を向けた。

 

「………貴方は、強いです」

「……当たり前だ。私を誰だと思っている。それに、お前はまだまだ子供だからな」

 

笑って椅子に座ったフィンレイに、リオンはしばらく黙り込んだ。

そんな少年の様子を伺うように、フィンレイはリオンをじっと見る。

その視線に、やがてリオンは口を再び開いた。

 

「…………貴方は、どうして僕を気にかけてくださるのですか」

 

リオンの問いに、珍しくフィンレイは言葉につまり、考え込む。

 

「あんまり、そういうのに理由とかいらないと思うのだがな……」

「……人とは、自分に利益のないことをするものでしょうか」

「なんだ、失礼なことを言ってくれるなリオン」

 

突然のリオンの物言いに、フィンレイはそれでも怒ることなく苦笑いで答えた。

彼がそうしたのは、それが少年の傷の一つだとわかったからだ。

 

フィンレイの言葉に表情一つ変えず、ただ視線を下げてカップを見つめる少年。

アメジストは僅かに朱を入れながらも、寂しく揺れている。

フィンレイは一度目を瞑り、頭の中で言葉を整え終えたのか、一つ息を吐くと同時に瞼を上げた。

 

「リオン。お前は、本当は何処までも人というものの暖かさを知っているはずなんだ。ただ、強く映りすぎたもので、見えていないだけで……私には、そう見える」

 

少年の呼吸が僅かに乱れたように感じた。だが、それ以外の反応はなく、ただ瞬きをし、相変わらずカップの中を見ている。

そんな少年の反応に何を感じたのか、フィンレイは僅かに微笑んだ。

フィンレイの言葉に間違いはない。

少年は知っている。貴方が笑うだけで幸せだと言ってくれた、暖かい女性を

 

「リオン。きっとお前は私を越えるだろう」

 

いつかと同じ言葉だが、今度はリオンがそれに答えることはなかった。

ただ、沈黙しているのを、真剣に受け入れてくれたのだろうと取ったフィンレイはにっと笑う。

 

「だが、それまでは……天才剣士のおまえの前を、私は歩いている……わかるな?」

 

少年が此処でようやく顔を上げた。

一瞬、目が合ったところで、少年はまた俯いた。

 

フィンレイの笑みと、マリアンの笑みが、重なって映る。

二人の言葉が、重なって聞こえる。

 

いつだって、頼って、いいのだと

 

「……………ありがとう、ございます」

 

フィンレイには見えないだろう、俯いた少年の表情が、今にも泣きそうに歪んだ。

それと正反対の、暖かいフィンレイの笑み。

相反する二つの顔に、傍観に徹していた仲間達のうち、カイルが突然目が覚めたようにびくりと肩を揺らし、目を見開く。

 

フィンレイの手が、カップに伸びたのだ。

 

「ダメだ!」

 

カイルが叫ぶのと逆に、少年は動かない。俯いたまま、一切、動かない。

だけれども、彼にはわかっているはずだ。気配でわかるはずだ。

 

今、目の前の人が、今、自分が、何をしようとしているのかを

 

「ジューダス!だめだっ……だめだ!止めて、やめて……だめだァあアっ!!」

 

カイルがリオンの前で腕を大きく振りながら叫び続ける。

干渉できない、既に起きたことである歴史に対し呼びかけるなどという滑稽な行動に、仲間達は誰一人言葉をかけられない。

 

「ジューダスッ!!!」

 

コクン。

 

その時、時は止まったように感じた。

だが、実際は、いつもの日常に流れるように、当然のようにフィンレイはそれを口にした。

日常とかけ外れていながら、あまりに代わりのない現実。

 

それでも、彼は

 

口をつけたのだ。

それに、口をつけてしまったのだ。

 

少年は、 少年は………彼を、

 

「フィンレイ様」

「ん?どうした、リオン…………リオン?どうした」

 

リオンの頬に伝うものに気付いたフィンレイは目を見開いた。

すぐに少年にかけよろうと机に手を突いて立ち上がった体は、ぐらりと傾く。

違う理由で、フィンレイの目は更に見開かれた。

 

「リ……オ………?」

「……フィンレイ様、僕は……」

 

体が傾いていくのと同時に、少年の頬を伝ったものが落ちていく。

 

「きっと、……貴方を一生、越えられません」

「…リオ、…………………ど……う、し…」

 

フィンレイは、少年の涙とその言葉に震えた手を伸ばしながら、最後に吐き出そうとした言葉を言い終えることなく目を閉じた。

 

仲間達が目を伏せる。

カイルは握り拳を額にぶつけ、奥歯を噛み締め、同じく瞼を閉じた。

 

初めて重みがかかった、もう片方の天秤の皿。

天秤に乗っている状態で、砕かれた重り。

その衝撃に、天秤は儚く鳴いた。

 

ピキッと、嫌な音が響く。

 

罅の入った天秤の皿は、重りを、そう簡単には受け付けないだろう。

 

「……きっと、僕は……これからも、こうやって、殺し続ける」

『…………。』

「……それでも、僕は…」

 

高く抱え上げられた罅割れた皿。

ずっしりと沈むは、とても細い、細い、細い糸。

 

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