少年は必死に走っていた。まだ6歳程の小さな少年はただ我武者羅に走っていた。これから日が落ち暗くなっていく時刻に、人通りの少ない町外れの道を町側へ背をむけ一身に。その道の向こうに少年の求めるものも、少年を迎えてくれるものもないというのに。それでもただ我武者羅に、何かから逃げるように、何かを求めるように走っていた。
彼が走った後には夕日に染められた雫が散る。
少年は泣いていた。辛くて辛くて仕方がなかった。どこに行けばいいかわからなかった。どこにも居てはいけない気がした。
だから息が上がって苦しくても、走り続けるしかなかった。
そんな少年を、突如白い服の女が抱きとめた。
真っ直ぐ前を見て走っていたわけではないが、少年はその女が居ることに全く気付かなかった。涙に塗れたアメジストが見開かれる。
そんな少年へと、女は慈愛と哀れみに満ちた視線を送る
「……辛いのですね」
「…………誰、だ」
少年は今まで泣いていたことを忘れ、眼に雫を残しながらも眉を寄せて警戒した。
女はその警戒を気にすることなく、少年の目線に合わせるように屈み込むと、再びこの女特有の目をもって少年を見つめた。
「助けて欲しいのではないですか?」
「………え、?」
困惑する少年の顔を、彼女は優しく両の手で包んだ。
夜風が混じる冷たい空気の中、ずっと走っていた少年の頬は冷たい。それが女の手により少しずつ温もりを取り戻していく。
「温もりが欲しいのでしょう?」
そっと女は少年の顔を横に向ける。少年は逆らうことなく女が見せようとする光景を目に入れた。遠くて少し見辛いが、そこには子供を肩に乗せて歩く父親。温かな幸せに包まれた親子の姿があった。
少年の目に膜が張ったのを見て、女は少年の頭を撫でた。
「貴方が悪いのではないのですよ」
「………でも、父さんは……僕にあんなことしてくれない」
ぽろりと、とうとう少年の目から雫が一つ落ちた。
それをそっと人差し指で拭ってやり女はペンダントに手を置く。
「私に願いなさい。全ては、人には抗えぬ運命が悪いのです。ならば…神に願えばいい」
少年は眉を寄せ、俯き首を横に振る。
「願ったって、何もならない。努力しても何も起きないのに、願って何が起きる」
「……今までは、私達がいなかったのです。でも、もう大丈夫なのですよ」
「……?」
少年は小首を傾げた。
女は微笑む。少年の求めているものと近いようで遠い、そんな温かみの笑みで、彼女は言った。
「さぁ、願って」
少年の願うものはきっとこれではない。
それでも、似ている。
例え確かなものでなくても、この痛みから逃れられるのだと、騙してくれるのならば
それでよかった。
少年は吊られるようにゆっくりと呟いた。
「……ぬくもりが、ほしい」
(………?)
変な感覚に囚われた。
今、自分は廊下を普通に歩いていたはずだ。いや、歩き続けている。
その足を止め、後ろを振り向けば先ほど出てきた部屋からそう離れていない場所にいた。廊下の壁に掛けられている時計の針も全く進んでいない。
だというのに、数分間意識が飛んでいた気がする。
(……歩きながら寝た……なんて、カイルにしかできないはず…)
顎に手をあててひたすらに疑問符を浮かべる。
此処は宿の廊下。
最寄のこの町で休んだ後なので疲れているはずはないのだが
(いつも警戒心の欠片も無いカイルがいるというのに、僕がこんなのでどうするんだ)
一度目を閉じ、己の呼吸を意識し、次に周りの気配を意識していく。気を張り直し再び歩みを進めた。今廊下を歩いているのは、宿の一階にある食堂へと向かう為だ。
食事を取りながら今後のことについて話し合わねばならない。
1000年前、そして18年前から戻ってきた今、エルレインの居場所が掴めていないのだ。
きっと今頃もう全員席についているだろう。先ほどフライパンがぐわんぐわんと鳴り響く騒音を部屋の中で聞いたのだから。
(………そういえば)
ふと、思い出すのは意識が飛んでいた間のこと
何か、夢のようなものを見た気がする。
一体なんだったのだろうか、内容まではっきりと思い出せない。
切なさを感じる夕焼け空の赤い色だけが頭に残っている。
だが、それ以外にもっと、見逃してはいけないものがあった気がする。
思い出せない苛立ちと妙な焦燥感に胸の当たりが気持ち悪い。
いくら思い出そうとしても、思い出せない。
そうしている内に階段が眼に入る。降りれば直ぐそこが食堂だ。
仲間達がどのテーブルに座っているのかは一発でわかった。
いつも一人、よく彼らから離れることはあったが、賑やかなメンバーのお蔭で彼らを探すのにそう苦労した経験はない。
「おいカイル!お前寝ながら飯食うなっていつも言ってるだろうが!」
「ほがぁっ!?」
「もう、カイルったら…」
ご飯を口の中に入れたままどうやら寝ていたらしいカイルの頭にロニの拳骨が落ち、リアラが笑う。そんな様子をニヤニヤしながらハロルドがなにやらメモを取っている。
「ふふ、データ採取データ採取☆」
カイルが食べながら寝ていた理由が彼女でないことを祈ろう。
あまりの騒がしさに近寄りがたく思わず階段を下りたところで停止していたら、直ぐに気付いたのか、ナナリーが手招きした。
「あ、ジューダス。早く座りなよ、このままじゃ飯取られちまうよ?」
その言葉に苦笑する。確かに、主にカイルとロニの食事スピードは凄まじい。こんな朝の様子を、確か前にも見たことがあった。
彼らのことを思い出しながら、1歩、2歩、仲間達への居るテーブルへと足を進める。
カイルが気付き、軽く手を振った。ロニもこちらを見て薄く笑う。何があったのか、突如ナナリーがロニの頭を引っぱたいた。どうせまた何かやらかしたに違いない。
前の旅の一行とはメンバーの個性が結構違うはずなのだが、やはりどこか似通ったものがあり思わず被せてしまう。
金髪の髪の男。彼をひっぱたくのは黒髪の女性。
それを眼鏡をかけた女性がくすりと笑って見ていて
賑やかな食事風景は今も昔も変わらない。
特にあの眩い金髪は
(まったく、本当にこいつは……あいつにばかり似……て……?)
ふと、違和感を感じて足が止まる。
何故だろう。先ほどまで思い浮かんでいたはずの風景がぼやけて消えていく。
目の前の金髪の少年をじっと見るのだが、ぼやけた記憶は跡形もなく消え去った。
(…………?………あいつって、誰だ?)
懐かしく思う金髪の青年が居たはずだ。
その青年の名前が……思い出せない。
(………?)
それだけじゃない。どこかで、何かが消えていく感覚がした。
(……なんなんだ……一体……)
何かを失っている。だが失ったものを忘れている為、何を失ったかわからない。
唯とても嫌な感覚だけが残る。廊下の時と同じ、違和感と焦燥感。
そして、自分の脳はそれに警戒信号を送り続ける。
このままではまずい。
――さぁ、願って
ふと、頭の中から聞こえた声。
それは最近嫌というほど聞いた女の声のはずだったのに、遠い過去の記憶から引きずり出されたような感じがした。
そこまで来て、ジューダスはある仮定に辿りついて目を見開いた。
(……まさかっ!?)
「ジューダス……どうしたんだい?」
突然動かなくなった仲間に、ナナリーが立ち上がる。
ジューダスは自分の中の仮定に事の重大さを痛感する。
だが、世界が歪んで行く感覚に全てが手遅れと顔を歪めた。
もう、目の前の女性の名も、その奥に居る金髪の少年の名前もわからない。
そして、自分が今此処に居ることも、ジューダスという名すらも、真っ赤な夕日に飲み込まれるように消えていく。
此処に来て、ようやく夢の内容を思い出した。
そう、あの時僕は
神様に、お願いしたんだ。
伸ばされた白い手に包み込まれ、意識は白濁に飲み込まれた。
彼が俯いてこちらに来るのは、ちょっとした照れ隠しみたいなもので、いつものことだ。
だがその足が突如止まり、少年の細い体が強張ったように見え、ナナリーは立ち上がった。
彼女が声を掛けてもジューダスは反応しない。
それどころか、ふらりと少年の体が傾いた。
「ちょ、ちょっとジューダス!」
人間の倒れる音にしては少し軽い音を立て、少年は床に倒れ伏した。受身も何も取らないのを見ると完全に意識が無いらしい。驚いたナナリーが椅子を倒しながら走り寄ろうとする。
カイルもジューダスが倒れていく様を全部見ていた為、音を立てて椅子から立ち上がる。隣に居たロニも同じく腰を浮かしている。
朝食をとっていた他の客も騒動に気付き、一気に食堂内がざわついた。
ナナリーがジューダスに向けて一歩大きく足を前へ出した時、それを阻むように少年の周りの景色がぐにゃりと歪んだ。
「な、これは!?」
ロニが叫ぶ。
歪んだ空間の中心から、曲げすぎて穴が開いたかのような黒い球体。
その黒い全てを歪ませる物体は、間違いなく飛行竜ごとレンズを落とした時に見た歴史改変の時のものだ。
それは倒れた少年の真上に出来上がり、今にも彼を飲み込もうとしている。
「ジューダス!」
カイルが倒れたままの少年を助けようと、食事の並んでいるテーブルの上に足を上げ、飛び越えようとする。だが、そうしている間にも歪は2倍にも膨れ上がっていた。
あちこちから悲鳴があがり、食器の割れる音が響く。
「ちょ、やべぇって!」
「時空間が目に見えて歪んでいる…」
「皆集まって!」
リアラが大声で叫ぶ。カイル達が反応するのを待つ暇もなく、彼女は意識を集中させてペンダントを握った。
テーブルを越えたカイルがナナリーと並び、ジューダスへと手を伸ばす。
だが、その手は全く届かず、その前に少年は完全に歪に飲み込まれた。
その瞬間、栄養を得たかのように歪は突如大きく膨れ上がり宿を飲み込む。
間一髪のところで、ジューダスを除くカイル達5名だけが、奇跡の光に包まれた。
Comment