dive – 6.第三階層

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温かい陽光、土の匂い、草木が風に揺れる音。

気づいたら、第二階層でヨウと呼ばれていた場所に来ていた。今回も無事コスモスフィアに入ることができたようだ。来るのは随分久しぶりになる。

ここは、ヨウのどこら辺になるのだろうか。そう軽い気持ちであたりを見回して、俺は絶句した。

「……増え……て」

世界は相変わらず鎖に覆われていた。その鎖の数が、増えている。

ただ増えているだけではなかった。第一階層から見てきた黒い鎖に紛れて、第二階層の最後に見たあの赤色の鎖が所々に存在していた。血を連想させる錆びついた赤い鎖。黒い鎖の方が数は多いのだが、相変わらず不気味な姿をしている赤い鎖はヨウの世界の明るさに似合わず嫌に存在感を放っていた。

あんなに簡単に千切ることができた鎖だというのに、まさかこのような形で再び現れるとは。

「とうとう第三階層までずけずけと入り込んだんだね」

いつも通りに、歓迎していないのがあからさまな言葉とともに心の護は現れた。

「なぁ……あの赤い鎖……その、大丈夫なのか?これって、俺が前の階層であの赤い鎖を千切ってしまったからなのか?」

「そんなにコスモスフィアの変化に恐れるなら、最初から来なければいいのに」

くっそ~! 相変わらず嫌味な奴だ。別に恐れてるんじゃねぇ、慎重になってんだよ!

「君の質問に答えようか。“そうだ”とも言えるし、“違う”とも言える。何はともあれ、ここでの行動は坊ちゃんに何かしら変化をもたらすよ。それは必ずしも良いことばかりが起きるわけじゃない。君が善意のつもりでやっていようともね」

「……あぁ、そう……だな」

現実世界ではレンズを握りしめていた右手で拳を作る。リスクを負っていることを忘れてはいけないんだ。

俺はもう一度辺りを見まわした。後ろを振り返れば大きな門と壁があった。インへの入り口だ。第二階層は丁度あの門からここへ来たところでを終わった。ここは、その続きになっているのだろうか?だが付近にジューダスの姿はない。

「なぁ、心の護。これは第二階層の続きなのか? 世界はよく似ているように感じるけど……第一階層と第二階層は随分と違ったのにな」

「第二階層を作り上げた思いと関係のある思いで構成されているんだよ」

「なるほど……世界観はそんな変わってないって思っていいのか?」

「ま、実際に触れてみるのが一番じゃない?」

質問に対する答えとしては不満だが、心の護の言うことも一理ある。俺は町の方へと歩き出した。今回もジューダス探しからといったところか。

ひとまず俺は第二階層で行ったことのある孤児院を目指した。一応この世界の俺の住居にあたる場所だ。俺がジューダスを連れ出したのなら、ヨウに住居も知り合いもいないジューダスを俺はきっと孤児院に連れ帰るだろう。いなかったとしても、あそこにはカイルやナナリーやルーティさんがいる。何かしらの情報は聞けるはずだ。

この階層のヨウの町も第二階層と変わらない町並みだった。やや薄れている記憶を辿って町を歩いていると程なくして孤児院が見えた。今日も子供たちは外で元気に遊んでいる。その中に目立つ赤毛が見えた。

「あぁロニ、おかえり。なんだい、ジューダスは一緒じゃないのかい?」

子供たちが遊んでいるのを見ていたナナリーが俺に気づく。ナナリーの口から出たジューダスの名に、俺は心底安心した。あぁ、ジューダスはちゃんとヨウの世界に居るようだ。

「あぁ、どこに行ったか知らないか?」

「まだ帰ってきてないよ。今日も付近の警備に行くって話しだったけど、相変わらず帰りが遅いね」

ナナリーの表情が陰る。

「あの子がここに着てから結構経ったけれど、まだ慣れないみたいだねぇ。やっぱりインとは随分と違うのか、中々打ち解けてくれないね」

「そう、か」

「大丈夫かねぇ」

この階層ではジューダスはヨウに来てから暫く経っており、今も尚打ち解けられていないらしい。現実世界では素性は教えてくれないが仲間として結構打ち解けてきたと思うのだがなぁ……。旅とは違いホープタウンの時のようにどこかに暮らすとなると、落ち着かないのかもしれない。ホープタウンでの暮らしも、日に日に慣れていってるように見えたんだが、そうでもなかったのだろうか。

「もうちょっと人生楽しんだらいいのにねぇ」

嘆くように言うナナリーの姿は現実世界と被った。実際にジューダスに告げられた言葉でもある。こうして精神世界に現れているのだからその言葉はジューダスに届いてはいるのだろう。

「そうだな……俺、もうちょっと探してくるわ」

「うん、頼んだよロニ」

笑顔に戻り子供たちの相手をし始めたナナリーに背を向け、孤児院から離れる。

さて、あいつはどこにいるかな。

 

 

 

町外れの丘にジューダスの姿は見つかった。俺が第二階層に入ったときに最初に居た丘だ。

「こんなところで何してんだ?」

ジューダスは丘に立つことで僅かに見える壁の向こうの町を、インの世界を見ていたようだ。俺の声に気づきこちらに顔を向けた。

「少し一人で考え事をしていただけだ」

「そっか。どうだ? こっちの世界は」

「……」

「なんか不自由してないか?」

「……何も」

「そっか」

「ただ、あそこは子供の声が煩い」

俺は笑った。ずっと孤児院で育ってきた俺としては慣れきっていたが、こいつは物静かな場所で育ってきてそうだもんな。

「きっとすぐ慣れる。そっか、静かな場所を求めてこんなところに来てたのか」

「……ここは平和だな」

「だろ?」

平和という言葉がジューダスから出たことに俺は嬉しくなって笑顔を向ける。ジューダスはヨウ側の町を静かに見下ろしていた。

「付近の警備を頼まれたが、モンスターが一匹もいなかった。……困った」

「あぁ、確かにな。まぁ別にいいだろ。もしものときの為の警備だし」

「……そうか? ……僕は、何でここにいるんだろう」

「ん?」

「せめて、モンスターの討伐でもして貢献できたら、いっそ居やすいのかもしれないのに」

ヨウを見下ろすジューダスがいつもよりも小さく見えた。あの無駄に己の腕や知識に自信を持って堂々としているジューダスが、不安そうに呟いたのだ。少し驚いたが、ジューダスの悩みに俺は共感ができた。

ジューダスはここに居てもいい理由を探しているんだ。

俺もスタンさんとルーティさんに孤児院に受け入れてもらった当初、何か役に立たなければいけない、そんな焦燥感に駆られていた。居場所を無くすのが怖かったのだ。

「大丈夫だ、ジューダス。お前は腕が立つからよ、居てくれるだけでも安心できるってもんだ。色んな知識も豊富だしな。警備だって、何も無かったのならそれが一番なんだ。もしものときの為にやっている訳だからな。分かりやすい結果を求めなくていいんだよ、これは警備をしていること自体が大事なんだ」

俺はジューダスの薄い背中を叩いた。安心しろ、そう想いを込めて。

別に、何か役に立てなかったとしてもルーティさんは孤児院から追い出すようなことはしない。ただ、そうと分かっていても自分の存在価値を求めずに居られない気持ちが、俺にはわかる。

「ほら、今日はもう十分過ぎる程警備したんだろ? 一緒に帰ろうぜ」

「……あぁ」

ジューダスは浮かない顔のまま頷いた。

 

 

 

孤児院の前へ辿り着いたときには庭で遊んでいた子供たちの姿は無かった。もう夕食の時間のようだ。中に入ると「おかえり」という言葉が至る所から聞こえた。

「あ、ロニ、ジューダス、おかえり! 今日はどうだった!? 俺も警備に行きてぇなぁ!」

カイルが相変わらずの様子で尋ねてくるのを「何もなかった」と笑って返す。何事もないのが一番だ。

「ロニ、ジューダス、おかえり」

「ただいま、ルーティさん!」

台所の奥からルーティさんが手を拭きながら現れた。いい匂いがする。今日こそルーティさんお手製の料理が食べられるだろうか。

「あらあら、ただいまの声がひとつ聞こえないんだけど~?」

俺が台所の鍋へ視線を移している間に、ルーティさんがジューダスへと歩み寄る。やや意地悪そうな顔をして詰め寄る姿にジューダスは顔を顰めた。仏頂面の前でルーティさんはニカッと笑顔を見せる。

「ここはもうあんたの家なんだから、帰ってきたら“ただいま”って言うの! ほら!」

ジューダスは戸惑うように一度大きく瞬きをした。

「……ただ、いま」

「よろしい!」

満足そうに胸を張り、ルーティさんは再び鍋のほうへ向かう。

あぁ、やっぱりルーティさんはすげぇ。こうやって当たり前のように家族として扱ってくれることに俺もどれだけ救われたか。ジューダスは唖然とルーティさんの背中を見ていた。きっと俺と同じ思いを抱いただろう。

「さ、ジューダス、ロニも配膳を手伝って」

「任せてください!」

俺は温かくなった気持ちに押されるように元気よく答えた。

やがて並べられた料理をルーティさん、ナナリー、カイル、俺、ジューダス、そして孤児院の子供たちで囲む。今度はルーティさんお手製の料理のようだが、少しだけ俺の知る味付けと違った。全く似ていないわけではないのだが、いや、こんなものだっただろうか? 思い出補正って奴がかかっているのかもしれない。

穏やかに交わされる談笑にジューダスは時に無理やり付き合わされる。主にカイルが興味津々にジューダスに話しかけるからだ。こんなところは旅の風景と変わらないかもしれない。なんだかんだで、俺にはこいつが十分孤児院に溶け込んでいるような気がした。

ジューダスの寝室は俺とカイルの部屋と同じになった。俺らのベッドの間に木材を敷き、その上に布団を敷くという簡易ベッドだ。ジューダスがヨウに来てからそこそこ時間が経っているはずなのだが、まぁこの孤児院もボロッちいわけだし、ちゃんとしたベッドにならないのは懐事情が悪いのだろう。

カイルはすっかり眠りについている。カイルが起きている間は否が応にも話につき合わされていたジューダスだが、カイルが眠ってからはすっかり喋らなくなってしまった。物思いに耽っているようにも見える。

色々話を聞きたい気持ちはあったのだが、どう話しかけていいかも定まらず、俺は目を瞑った。

そして寝たのかよくわからないコスモスフィア特有の不思議な睡眠を経て目を開ける。寝るぞ!って気持ちで目を閉じたらもう眠れているようだ。チュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえてくる。窓からはしっかり朝の光が差し込んでいた。

「……あ?」

ジューダスが寝ていたはずの場所は布団が几帳面に畳まれ、当のジューダスの姿は部屋の中にどこにもなかった。

俺は頭をボリボリと掻く。ジューダスが朝起きたらいつの間にか居なくなっているのはよくあることだった。というか、あいつの寝顔を見たことがない。寝転がっている姿は見たことがあるが。

それにしても、よくもまぁここまで気配を感じさせずに行方をくらますものだ。

俺はベッドから抜け出し一階へと降りた。まだルーティさんすら目を覚ましていないようだ。一階に姿はない。外か。俺は孤児院から出て町を歩き回る。

まだ早朝のためか外に出ている人は少ない。畑仕事をしている人が数人といったところか。いつもはどこからか穏やかな話し声が聞こえているこの町も今は静かなものだ。ジューダスの姿はない。

今日もヨウの世界は良い天気だ。晴れ渡っている。一方イン側の方には厚い雲が見えた。この空の事情が変わることはないのだろうか。

あれ?

「……心の護」

「ん?」

「赤い鎖、増えてないか?」

気のせいだろうか。いや、でも増えている気がする。この世界に来た当初は黒い鎖の方が数が多かった。だが今では赤い鎖が黒い鎖の数に追いつくのではないかという程、赤い鎖が増えていた。

「……」

心の護は何も答えない。

何でだ。この赤い鎖はあいつがインの世界から逃れられなかった過去を体現しているものではなかったのか。

気味が悪かった。正直こういう気味が悪いものは苦手だ。恐れとか焦りとかが胸を渦巻く。俺はそれを振り解くように首を振った。落ち着け、あの鎖は前回のように直接行方を阻んではいない。ただ世界を覆っているに過ぎない。とりあえず今はジューダスを探してみよう。あの丘の上にいるだろうか。

思いつきのまま丘まで足を伸ばしたが、予想は裏切られ丘の上にジューダスの姿はなかった。丘から町を見下ろしてみるが見つからない。まぁ建物の陰で見えない部分も多いからなんとも言えないが。

「どこ行っちまったんだ」

参ったな、ともう一度辺りを見回す。

薄暗いインの世界が視界に入る。そういえば昨日、ジューダスはここからインの世界を見ていた。

「……まさか、帰ったのか?」

その考えを否定することができず、俺は丘を走り降りた。ジューダスがここからインの世界を眺めていたのは、帰りたいと思っていたからなのか。ヨウの世界に溶け込んでいたと思ったのに、何で。

インで体験したことが頭を過ぎる。冷たい牢屋と鉄格子を蹴られたときの音と理不尽な罵声。あんな世界に戻らせるなんて、絶対に嫌だ。

俺は壁の向こうに行ける唯一の門を目指して走った。そしてそこに、ジューダスの後姿があった。

「ジューダス!」

ジューダスは門に手を当てていた。今まさに、門を開こうとしていた。

「ジューダス、待て!」

俺は駆け寄り、門に触れていた方のジューダスの腕を掴んで無理やり引き寄せた。

「いっ……」

「何で帰ろうとするんだ馬鹿!」

腕を引かれた痛みにジューダスの唇から僅かに苦痛の声が漏れる。俺は感情のままに声を荒げた。

「……ロニ」

「何でだよ! ルーティさんも、ナナリーも、カイルも! みんなお前を受け入れてくれただろ!? 何でそれなのに、わざわざあんな所に戻ろうとするんだよ!」

俺には全く理解ができなかった。ただあんな場所に自ら身を置こうとするジューダスに腹が立った。その感情のままジューダスを睨みつけた。

「ロニ……すまない、お前たちには感謝している」

乱暴な俺の言動に、ジューダスは拒絶や苛立ちを返すことなく力なく呟いた。その弱った姿に俺は冷静さを取り戻す。怒りで上がった俺の呼吸が暫く沈黙の変わりに続いた。

「……ただ、僕は……帰りたい場所が、ある」

「帰りたい場所?」

「待ってくれる人が居るんだ」

俺は困惑から言葉が紡げなかった。

「あっちに、居るんだ」

ジューダスの視線は門の向こう、インの世界へと向けられた。

不思議な感覚だった。違和感を感じる。目の前のジューダスが、俺の知るジューダスから遠くかけ離れていくような……。

「待ってくれる人って……」

それはきっと、俺の知らない人物なのだろう。だが、だがジューダスは……。

ジューダスが仲間になり、アイグレッテから出る時、カイルはジューダスに声をかけたのだ。半ば無理やり仲間に入れたとはいえ、付き合わせて本当に大丈夫なのか、家族は心配しないのか、と。それに対し、ジューダスは「そんなものは居ない」と言ったのだ。そんなジューダスの言葉があったから、第二階層でも俺をハメる為に現れたおっさんに俺は違和感を覚えた。それと同じだ。

だが、今回はどこの誰と知らないおっさんが言っているわけじゃない、ジューダス本人が言っているのだ。

「家族……か?」

現実世界では居ないと言っていた。嘘だったのだろうか。

ジューダスは俯いた。僅かに唇が動いたが、すぐ閉じられる。何か言葉を飲み込んだ様だった。

「ジューダス?」

「違う。……でも、おかえりって言ってくれる。だから……帰りたい」

初めてだ。ジューダスからはっきりと寂しいという感情を感じたのは。

現実世界でも、こいつはその気持ちを隠して俺たちと一緒に旅をしているのだろうか。何だろう、今目の前に居るジューダスと、俺の知るジューダスが上手く結びついてくれなかった。だが、これは間違いなくジューダスの心の一部なんだ。だとしたら、こちらに、ヨウに無理やり連れて来たのは、間違いだったのだろうか。……赤い鎖を引き千切ったのは、間違いだったのだろうか。

俺は鎖をジューダスの心の一部だとしても、あまり良くないものだと捉えていた。だが、考えが浅はかだったのかもしれない。もし赤い鎖が、インの世界でジューダスを待つ人を体現していたのなら、その人を想うジューダスの気持ちを体現していたのなら、それは壊してはいけないものだったのではないか。だから赤い鎖がこの世界に蔓延ることになったのではないか。

「大切な人なんだ……」

小さく呟いたジューダスの姿は今まで見たことのないほど子供染みたものだった。俺は現実世界のジューダスに一人で生き抜いてきた強さを見ていた。その裏に、こんなにも儚く誰かに縋る気持ちがあるとは。……いや、これが当たり前か。年相応の姿だよな。こうやってダイブによって心の奥深くに来ているからこそ見ることのできる、表面上に現れない本来の姿なんだ。ダイブを続ければ思いもよらないジューダスの一面をこんな風に見ていくことになるのだろう。

このジューダスを、俺は引き止められない。あのジューダスが嘆願するように帰りたいと言っているのを、誰が引き止められようか。

だが、それはあいつがあの世界に行くことを意味する。あの、汚い世界に帰すことを意味する。そしてもしかしたら、現実世界でこいつが旅に同行しなくなることも、意味するのではないだろうか。

……だが、それでも

「こっちに来てから色々、良くしてもらったのに、悪かったとは思っている……ロニ、すまな…」

「わかった」

ジューダスの謝罪の言葉を遮り、今までずっと掴んでいた腕を放してやる。ジューダスは俯けていた顔を上げた。

「悪かったな。無理やり連れて来ちまって」

「……いや」

「お前に帰る場所があるのなら、そこでお前が安心できるっていうのなら、俺はそれでいい」

そう、それでいいはずだ。一人で何かを背負っているように見えたこいつが、その大切な人とやらの前で荷を軽くすることができるのなら、無理に俺がその役にならなくてもいいんだ。

俺は自分を納得させるように言って笑った。ジューダスの表情に明るさが戻った気がする。小さく、ジューダスの口が動く。俺の勘違いじゃなかったら、ありがとうと、そう動いた気がした。

その時だった。もはや聞きなれたあの音がしたのだ。ジャラジャラと、金属をこするあの鎖の音が。

俺とジューダスは同時に音のした方、インへの入り口となる門を見た。そこには第二階層のときのように鎖が巻きついていた。赤い鎖ではなく、黒い鎖が。

「何で……?」

ジューダスもまた驚愕していた。ややその鎖を恐れているようにも見えた。

俺は門に駆け寄り黒い鎖を握った。そのまま力任せに引っ張る。だが赤い鎖とは違い全く千切れる気がしない。

「くそ、何で……」

門に片足をかけ、全体重で引っ張る。びくともしない。俺は舌打ちをひとつして辺りを見回した。そこそこ大きな岩を見つけ、両手でそれを握り鎖に打ち付ける。それでもダメだ。

何とか隙間が開かないかと門を押すも、やはり鎖により阻まれほんの僅かにしか動かない。あのインの世界の冷たい空気を通す隙間すら作れない。

「ロニ……無理だ」

俺が鎖に四苦八苦しているさまを見ていたジューダスが静かに呟く。

「畜生、なんだってこんな、突然……」

まさか、こんなことになるなんて。ジューダスを大切な人のところへ帰してやれなくなるなんて。俺が、無理やり連れてきちまったのに。

「悪い、ジューダス。ちょっと待ってろ。絶対帰してやるから」

「ロニ……」

俺はジューダスを置いて走り出した。さすがにこれは、こんなのは寝覚めが悪くなる。畜生、第二階層であんな無理やり連れ出さずにもっとちゃんと話を聞いてやればよかった。このまま鎖が解けなかったら、俺はずっとあいつを大切な人のところへ帰してやれない。その人との仲を裂いた最低な奴になっちまう! 責任を持って、あいつをあっち側に帰してやらねぇと!

孤児院に、俺の武器であるハルバードがあるはずだ。そいつを使えば普通の鎖だったら傷くらいつけられるはずだ。何度も繰り返せば断つことだってできるはず。

しかし、何なんだ。あの鎖は……今度は何のために現れた?

ふとその考えにいたって走る速度を緩める。

俺は第二階層で赤い鎖を千切ったことを後悔したばかりだ。では、黒い鎖は千切っていいというのか? そもそも、あれはジューダスの意志で動いているんじゃないのか? ジューダスはインに帰りたくないとも思っているのか?

「あぁああ! わかんねぇ!」

「煩いなぁ」

完全に歩みを止めて頭を抱えた俺に、今まで黙って見ていた心の護が煩わしそうに声を発した。俺は答えの出ない問題に悩んだストレスを思わず心の護にぶつける。

「おい、心の護! どうなってんだよこれ、説明してくれよ! あいつにとって一番いいのは、どうすることなんだ? あいつが本当に望んでいることは何だ!? 何でこんな矛盾したことが起こる!? 一方ではヨウに行かせないように鎖巻いて、もう一方ではインに行かせないように鎖巻いてって、意味わかんねぇよ!」

「喚かないでよ。人の心が常に同じ方向へ向かうなんて思ってたの? 相反する思いを同時に抱くことだってあるでしょ。現に君だって今、坊ちゃんを“帰したい”思いと“帰してはダメなのでは”って想いの間に揺れているじゃないか」

「う、うん……? あぁ、うん……一緒、なのか?」

「似たようなものでしょ」

確かに……そうかもしれない。ジューダスもまた俺と同じように迷っているのか。その迷いがあの鎖なのか。

「全く迷いなく、何のリスクなく何かを手に入れるなんて無理な話なんだよ。君は赤い鎖を簡単に千切ったけれど、今回の鎖は硬いよ。その硬さはそのまま想いの強さだ。ただ、それだけの話だよ」

「あの鎖の想いに打ち勝つほど、ジューダスがインに戻りたいと強く想えるかどうかってことか」

「そうだよ。この世界の主は坊ちゃんだからね。君が鎖をどれだけ頑張って壊そうとしても、結局坊ちゃん自身がその決断をしなければ鎖は壊れない。……でも、君が鎖を壊そうとする姿はそのまま坊ちゃんの心に影響する。君の言動が坊ちゃんの決断を左右することもある。それが、コスモスフィアでありダイブという行動なんだよ」

「……そうか」

俺は空を仰ぎ見る。赤と黒の鎖がそこには無数に存在する。

「なぁ、この鎖は一体何なんだ? 何でインに帰れなくしてるんだ? 何の想いなんだこれは」

せめて、今門の前で待つジューダスのように理由を明言してくれれば分かりやすいというのに。

「……さぁ、自分で考えてみれば」

心の護は冷たく言い放ったが、心なしかその声に力は無かった。やや気になったが、一度質問を避けられてから答えてもらった試しは無い。ジューダス本人に鎖のことを聞いたら何かわかるだろうか。壊すかどうかはともかく、今はとりあえずハルバードを取りに行くとしよう。

歩みを止めていた足を動かす。ジューダスと話をしたり、迷ったりしている間に時間は大分過ぎたようだ。行きと違って町の外に人が増え始めた。

よく知る景色が流れていく。右手には木の柵があり、その奥には畑。階段を上って広間に出て、あの橋を超えればすぐ孤児院が……

は?

思わず呼吸を忘れた。俺は来た道を振り返る。やや眺めの良い広場から町を見渡す。この景色は、旅に出るときに焼き付けた景色だ。

 

そこは、俺のよく知るクレスタの町だった。

 

おかしい。おかしい、おかしい……いつの間に変わった?

ここはジューダスの精神世界で、ヨウ側の世界だ。変わらず町の向こうには壁が見える。だが、壁と鎖さえなかったら、間違いなく今俺が居るこの町はクレスタだった。

第二階層、第三階層の先ほどまでは、この町はクレスタなんかじゃなかった。確かにクレスタに雰囲気は似ていたが、決して同じではなかった。俺は孤児院に続く橋を見る。そもそもここに川すらなかったはずだ。

「世界が……変わった……?」

もう一度来た道を、門の方を見る。壁はある。門も、町の外にあるだろうか? 俺は門のところに、ジューダスのところへ戻ることができるだろうか。

第一階層の最後のように世界が崩壊したわけではない。だが、それと似た恐怖が沸々と込み上げてきた。

胸を撫でて自身を落ち着かせ、俺は孤児院に続く橋を渡る。すぐそこに孤児院はあった。やはり俺の知る、クレスタの孤児院だ。

「てや!」

遠くからカイルの掛け声が聞こえた。剣術の練習でもしているのだろうか?

「お、いいぞ、カイル。結構様になってるじゃないか」

「そうでしょ!」

次いで聞こえてきた声に再び俺は驚かされた。そんな、馬鹿な。どうして?

「父さんも、もうちょっと本気出してくれよ!」

「あははは。まだカイルにはちょっと早いかなぁ……あ、ロニ」

太陽の光を浴びて金髪が眩く輝いている。その人は当たり前のように俺に片手を上げて笑顔を向けていた。

「あ、ロニ! どこに行ってたんだよ! 母さん心配してたよ!」

「どうせ適当に散歩してたんだろ? ロニも大きくなったんだから大丈夫だって言ったんだけどなぁ。ルーティのやつ聞かなくて。ちょっと謝っておかないと後が怖いぞー?」

あまりにも懐かしい声だった。何年も聞いていなかった、永遠に失われたはずの声だった。喉が震えた。

「スタンさん……」

俺の前には、スタンさんがいた。四英雄のスタン・エルロンが、デュナミス孤児院の父が、孤児院の庭に立っている。

「ん? どうしたんだ?」

スタンさんは首を傾げた。すぐ近くに居るカイルもスタンさんと同じように目をパチパチと瞬かせている。

「あ……えっと……」

声が上手く出ない。何を言ったらいいかもわからない。頭の中が真っ白だった。

「カイル、一度稽古はここまでだ。ルーティにはロニがちゃんと帰ってきたこと伝えておいてくれ。ロニは何か話したそうだから、俺はロニの話を聞くよ」

「うん、わかった」

カイルはスタンさんの分の木の棒を受け取り、孤児院の中へと入っていった。

「ロニ、どうした?」

スタンさんは俺に近寄り、俺に優しく聞いてくる。あぁ、俺の知ってるスタンさんだ。目頭が、熱くなった。

「なんだ? どうしたんだよ」

目に涙の膜が張ったことを悟られたのかもしれない。スタンさんはやや困惑しながらも笑顔を絶やさず俺の肩に手を置く。温かい。

「とりあえず、そこに座ろうかロニ」

「あ、はい」

スタンさんがそっと俺の肩を押して孤児院の庭にあるベンチへ誘導してくれる。スタンさんの目がそちらへそらされている間に腕で目を擦って水気を拭った。ベンチに座ると同じようにスタンさんも俺の隣に座る。

「ロニ、早朝からどこに行ってたんだ? ルーティより早く起きてたらしいじゃないか」

「門の、ところへ」

「門?」

自分で言って、漸く我に返った。そうだ、門だ。ここは、コスモスフィア。このスタンさんは現実世界の人ではない。存在しない。ありえないことは俺がよく分かっている。

……今、目の前のスタンさんにどれだけ詫びようとも、意味がないのだ。

苦い何かを、無理やり飲み込む。ようやく冷静になれてきた。

「朝起きたらジューダスが居なくて、探してたんです」

俺の肩に手を置いてくれているスタンさんを漸く真っ直ぐ見られた。あぁ、それにしても、やはりスタンさんだ。本物そっくりだ。不思議だ。この包まれるような温かさだとか、安心感だとか、この人の大らかな笑顔だとか、本当に本人そのものだ。本人ではありえないのに。ここは、ジューダスのコスモスフィアで…………あれ?

「ジューダス?」

もしかしてジューダスは、スタンさんに会ったことがあるのか?

この世界に存在する人物の性格や言動はジューダスが現実世界でその人に持った印象がそのまま現れるのだと聞いた。スタンさんは英雄として名を馳せている。色んな本にも載ったりしているだろう。だが、噂や本のみで、こうも本人そっくりに再現できるだろうか?……いいや、そういえばスタンさんだけじゃない。ルーティさんもだ。あまりにも本人そっくりだ。あのルーティさんの人をからかう姿なんて、実際に会わないとわからないんじゃないのか。

「ロニ?」

「あ、えっと」

考え事に没頭してしまった。そうだ、話の途中だ。何の話をしていたんだったか。

「ジューダスって誰だ?」

「え? えっと…………え?」

え?

スタンさんはジューダスを知らないことになっているのか? いや、確かにスタンさんがこの世界に現れたのはヨウの町がクレスタへと変わってからだ。なんだ、よくわからないことになってきた。

「ロニ、父さん! 母さんがそろそろ入ってきてって! ロニ、おなかすいてるでしょ?」

突如扉が音を立てて開かれ、カイルが顔だけ出した。スタンさんは「んーまだ話の途中なんだけどなぁ」とのんびり頭を掻きながら言う。

扉の向こうからスープを煮込んでいるのかいい匂いがしてくる。いや、ダメだ。町が変わったりスタンさんに会ったりですっかり混乱してしまったが、俺は飯を食いに孤児院に帰ってきたわけじゃない。

「いや、悪いカイル……俺、ジューダスのとこへ行かねぇと。ルーティさんにもそう伝えてくれ」

俺はスタンさんにも「すみません」とだけ言って孤児院の壁に立てかけられているハルバードの方へ向かう。

「ん? ジューダスって誰?」

背後から聞こえてきた声に足が止まった。聞き間違いでなければ、今の声はスタンさんじゃない。

「カイル?」

「うん?」

「何つった……?」

「え? ごめん、間違えた? その、ロニが行かないといけないとこって……?」

カイルは孤児院から完全に出てくると、扉を閉めて首を傾げた。俺の表情が硬いからか、やや困惑気に。

「ジューダスの、ところだ」

「……うん、それ、誰?」

再度、カイルは言った。カイルが、ジューダスのことを知らない。スタンさんならまだしも、昨夜あれだけジューダスに色々話しかけていたカイルが、ジューダスを、わからない?

また、第二階層に逆戻りしたかのようだった。

「昨日、お前あんなにジューダスにくっついて色々喋ってたじゃねぇか」

「……え?」

ダメ元で言ってみるも、やはり無駄のようだ。第三階層での昨日までのことが無かったことになっている。何でだ。何が起きた? ジューダスが、インに帰ろうとしているからか? いや、でも、だからって、何でジューダスがここに居たことが全て無かったことになるんだ?

「えーっと、ロニ……俺わからない」

カイルは困惑して言った。ジューダスは、再びカイルの記憶から消えた。なら、ジューダス本人は、どうなったのだろうか。あいつはインの世界に戻れないまま門の前に居るはず。この、ジューダスという存在を忘れているヨウの世界の中に、まだ居るはず。

混乱する頭の中に、その事実が嫌な冷気を纏って思考を冷やす。

俺は居ても立ってもいられず、カイルとスタンさんをそのままに走り出す。壁に立てかけられていたハルバードを掴み、肩に担いで橋を渡る。

「ロニ!?」

背中にスタンさんの声がかかるが、応える余裕はない。

ヨウに居場所がなくなって、インにも帰れない。そんな世界に一人ジューダスを置いてなんていられなかった。

よくわからないことだらけだ、めちゃくちゃだ、この階層は。ただ、何かよくないことが起こっている。そんな感覚だけがある。世界を包み込む鎖が、冷たく感じる。あれだけ暖かく感じていたヨウの世界が、今は気温を感じられない。どこか、虚ろだ。この世界は。

広間の階段を飛び降り、一気に町を駆け抜ける。壁が段々と近づき、門が見えた。そこに黒い人影を見つけて胸をなでおろした。

「ジューダス!」

「ロニ」

振り向いたジューダスの姿に何も変わりはない。良かった。

「待たせて……悪かった」

上がった息を整える。ジューダスは俺が持つハルバードを見た。

「武器を、取りに行ったのか」

「あぁ」

普通なら、これを何度も叩きつければいつかは鎖は切れるだろう。……普通ならば。

しかし、黒い鎖を壊す前に、今は確認しないといけないことがある。

「なぁ、お前はカイルのこと、知ってるよな?」

「……どういう意味だ?」

「カイルって誰か、わかるよな?」

「…………あぁ」

長い間があったが、ジューダスは知っていると答えた。沈黙は単純に俺の質問の意図が理解できなかったからだろう。

「そうか。よかった。……なぁ、カイルからお前の記憶がなくなってるのは、何でだ? お前の仕業か?」

ジューダスの目が僅かに見開かれる。

「なぁ、ジューダス。お前、この鎖が何でここに巻きついているのか、理由はわからねぇか?」

「……」

ジューダスは答えない。

「この世界は、お前の世界だろ? おまえ自身が作り出している世界のはずだ。黒い鎖も、カイル達の記憶が消えたのも! なぁ、理由を教えてくれよ」

「僕には……わからない」

ジューダスは小さく首を横に振り、一歩俺から下がった。そして自分を抱きしめるように右手で左腕を握りしめ、俯き呟く。

「僕は、ただ……帰り……たい……」

あまりにも普段のジューダスからかけ離れる弱々しい姿に、責め立てるように問い詰めたことに罪悪感を抱いた。燻る焦燥感とそこから生まれる苛立ちを何とか落ち着かせる。

結局、何もわからないままか。何も答えてくれないのか。本当に知らないのか、知っていて黙っているのか、それとも無意識なのか、今目の前に居るジューダスとは違う思いで形成された何かがやっていることなのか。

何れにせよ俺が今答えを知る術はなさそうだ。これ以上俺が喚いても、目の前のジューダスを苦しませるだけになりそうだ。

黒い鎖も、カイルからジューダスの記憶が消えたのも気になる。気になってしょうがない。本当にこのままでいいのか。この世界は、おかしなことになっていないか? ……俺は、どうすればいい。

ジューダスは、門の方を見た。門の向こう側を。閉ざされ行くことのできなくなった、帰るべき場所を、揺れる瞳でじっと見ていた。

帰してやるべきだ。そう、それは変わらない。だが、カイルからジューダスの記憶が消えたのが腑に落ちない。

「ジューダス、本当にカイルからお前の記憶が無くなった理由は、わからないのか?」

ジューダスは俺の方へ視線を戻した。

「カイルは……僕のことが、わからなくなっているのか」

「……あぁ」

少し戸惑いがちに呟かれたジューダスの言葉に、やはりこのジューダスにはわからないことなのか、と俺は顔を顰めた。が、続いて出た言葉に息を呑んだ。

「それは、仕方のないことなんじゃないのか」

仕方のない、こと……?

「……なんでだ?」

思わず睨み付ける。声も硬くなってしまった。どうしたって怒りの感情が滲み出てしまう。自分のことを忘れられてしまう、それが、仕方のないことだと? ありえねぇ。

ジューダスは目を伏せた。

「僕はインに帰るから」

「お前がインに帰ったら、なんでカイルからお前の記憶がなくなるんだよ! お前はなんでそれが仕方ないことだと思うんだ? ……もしかして、元の居場所に帰ったら、自分なんてすぐ忘れられるって考えてんのか?」

別離の後、時間の経過による忘却を過剰に表現したのが、カイルからの記憶の消失だろうか。

「そういう、ものだろう?」

ジューダスの表情が皮肉気に歪む。時間と共に忘れていく人間の性に対してなのか、忘れられていく自分に対してなのか。

時間による忘却は否定できない。俺だって、本当の両親の顔をはっきり思い出せないのだから。しかし、だからといってここまで極端に忘れるか?

「まぁそりゃ、時間が流れれば多少記憶は薄れるもんだけど……でもお前みてぇな個性的な格好してる奴、そうそう忘れられねぇよ」

まだ不確かなところはあれど、理由が掴めて怒りは若干薄れた。俺は頭をボリボリと掻く。

「なんだ、そういうことか。……それなら、いいんだ。でも絶対忘れられるだろうなんて悲しいこと考えんなよ」

記憶は繰り返し思い出すことで多少の維持は出来る。それを全くしなかったら、時には名前すら忘れてしまうことは確かにあるだろう。でも、あのカイルのことだから旅のことは繰り返し思い出して武勇伝にするだろうし、名前ぐらい普通に覚えてそうなんだけどな。

それに何より、一生の別れってわけじゃねぇだろ?

「まぁ、なんだ。それだけじゃなくてよ、お前インに帰った後またこっちに遊びに来ればいいじゃねぇか」

その発想は無かったと言わんばかりにジューダスの目が見開かれる。おいおい、別れたらその後一生会うつもりなかったのかよ。そりゃお前、寂しいじゃねぇか。

いや、会いに来れないと思う理由があるのか?赤い鎖と、黒い鎖がそれにあたるのだろうか。

……そういえば、こいつは自分を知られることによる拒絶を恐れている。もしかして別れる時がきたときには俺達は仲違いしているとでも思っているのだろうか。この鎖は、そういうモノなのか。

黒い鎖が太陽の光を受けて鈍く光っている。ハルバードを握る手に力が篭る。俺は鎖を斬る。その決意が出来た。

「こんな鎖、俺がぶっ壊してやるからよ。行き来すりゃいいじゃねぇか。カイルだって喜ぶ。俺も気をつけながらインに、お前に会いに行くのだって、悪くねぇって思うしよ」

ジューダスの瞳が揺れている。俺の言葉は届いているだろうか。

「だから、勝手に人の記憶から自分のこと消すな! ついでに、お前もできるだけ俺らのこと忘れるなよ。俺みてぇなイイ兄さんを忘れるなんて、人生損するぞ!」

左手を腰に当てて、胸を張って笑って見せる。忘れられるだとか、暗いことばっかり考えているこいつに明るい未来を見せてやりたい。

ハルバードを担ぐ。

「さ~て、景気良くぶっ壊すか!」

「ロニ」

背中にかけられた声は冷めていた。名前を呼ばれただけで、俺とジューダスとの間にある温度差を感じざるを得なかった。構えかけたハルバードを地に着けて振り返る。

ジューダスの表情からは感情が抜け落ちているように見えた。現実世界でも幾度と感じたジューダスとの温度差。納得の行かない事態に怒りをあらわにする俺に対し、ジューダスはいつも冷静で、諦念していた。今も、また。

「どちらかしか……選べない」

「あ?」

力なく呟かれる言葉の意味はわからない。ただ、こいつが俺の描いた明るい未来ってやつをカケラも信じていないことだけはわかる。

理解できない。ジューダスを助けたいのに俺の思いとは真逆の考えに居るジューダスに腹立たしさが募る。どうしてこうも思い通りに行かない。本当にこいつとは、意見が合わない。

何でだよ! そう叫ぼうとした時、ジューダスの後ろ、クレスタの町から誰かがこちらに近づいているのが見えた。

「ロニ」

その人は俺の名を呼んでから走り出す。太陽に輝く金髪。スタンさんだ。

「突然走ってって、しかも中々戻らないでさ、何してるんだ?」

「スタンさん」

ああ、そうか、心配させてしまったのか。わざわざここまで探しに来させてしまった。焦っていたとはいえ、悪いことをしちまった。

ジューダスが突然の第三者の出現に後ろを、スタンさんの方を向く。

突如視界が縦にぶれた。ドン、と大きな音が鳴ったようにも感じた。

「な……」

地震か? 上へと突き上げるような振動が体を襲った。それは一度にとどまらず、二度、三度と置き、次には横揺れが始まる。

「うわぁ!」

立っていられない程の揺れだった。俺は地面に這い蹲った。

「何だ、何が起きて……」

形容しがたい音があちこちから聞こえてきた。ガラスを割るような、金属が砕けるような。そして次にまた聞きなれた鎖の音が響く。

何が起きているんだと、揺れる視界の中、空を仰ぎ見た。

「な、」

この世界を囲んでいた黒い鎖が、今まさに増えようとしているところだった。それも、一本や二本ではない、百はありそうな鎖がいっぺんに。それは赤い鎖を打ち砕いて世界を覆っていく。赤い鎖は音を立てて落ちていく。幸い、この町の付近に落ちてくる様子はないが、恐ろしい光景だった。空高く伸びている赤い鎖が、その高さから地上へ墜落していくのだ。この揺れは地に落ちた鎖の衝撃から生まれているのではないか。世界を揺るがす、天変地異だ。それは赤い鎖が一本も残らなくなるまで続いた。

最後の赤い鎖が黒い鎖によって打ち砕かれ落ちて消えたときには、地震は収まっていた。俺は唖然として何も言葉を発せられなかった。

「ロニ、大丈夫か?」

ジューダスに声をかけられ我に返る。

「あぁ……お前こそ怪我はないか?」

ハルバードを杖代わりに立ち上がり、砂埃を払った。そうだ、スタンさんは?

「……あ?」

辺りを見回してもあの眩い金髪がどこにも見当たらない。変化はそれだけではなかった。

「町が……戻ってる」

クレスタへと変貌していたヨウの世界は再び元の姿を取り戻していた。

「煩わせてすまなかった。お前のおかげで目が覚めた」

「え?」

門の前に来てからジューダスはずっと元気がないように見えたのだが、今のジューダスは普段の様子を取り戻していた。冷静で隙を感じさせない凛とした姿。

何だ、その心境の変化は

「んな……」

ジューダスの背後の光景を目にし、俺は驚愕した。

今まで壁と門があった場所が、無くなっていた。

「なんだこりゃ……」

地割れを起こし陥没したかのように、切り立った崖のように地肌を残すだけで、壁があった場所には何も無いのだ。落ちないようにそっと下を覗き込んでみるが、下には世界を覆う鎖以外何も見えない。底が見えない崖のようだった。

「どうして、何が起きた!?」

インと呼ばれていた世界が、丸々消えてなくなっていたのだ。

「落ち着けロニ」

「インはどうなっちまったんだ!?」

「ロニ」

こいつをインに帰してやらないといけなかったのに。

「お前は、もう帰れないのか……?」

門が塞がれたどころか、行き先が消えてなくなってしまった。失われてしまったのだ。それは、頑張れば何とかなるなんて話では、もう、ない。こいつは二度と、インに帰れないのだ。あれだけ帰りたいと寂しい顔で呟いていたのに。俺はこいつから大切な人を失わせてしまった。

これでは、あの時と同じではないか。カイルの時と……。

「俺の、せいなのか」

「違う」

打ちひしがれる俺に、ジューダスは強く否定した。

「これはもう決まっていたことなんだ。これが本来あるべき世界の姿だ。僕もお前も、幻を見ていただけなんだ。……もう、存在しない世界だ」

幻……存在しない世界……?

焦燥と混乱に白くなる頭に、なんとかジューダスの言葉を詰め込み、これまで起きた音の断片を引っ張り出して繋げ、現状を整理する。

簡単に千切れた赤い鎖。ジューダスがヨウに行けなかった、その障害となっていた赤い鎖は脆かった。それはその障害が過去のもので今はもうないからだと、そう心の護は認めていた。

取り返しのつかないことをしてしまったのでは、という恐怖心がゆるゆると消え行き、辿り着いた答えにすがる様に問う。

「お前、故郷をなくしていたのか?」

「……そんなところだな」

ジューダスは自嘲するように力なく口角を上げて見せた。

インという世界は、ジューダスの過去そのものだったということか。現実世界ではもう、存在しないし、戻れない。そういう、ことだろうか。

バチバチ、と目の前に突如光の柱が上がった。あまりの眩しさに手の甲で陰を作る。その光は力強く空へ向かって伸びている。

「これは……?」

「パラダイムシフトか」

ジューダスは無表情で光の柱を見つめていた。パラダイムシフト。あぁ、心の護が言っていた階層を終えた証の光。見るのは初めてだ。

「お前も、パラダイムシフトのこと知ってたんだな」

パラダイムシフトのことをリアラはジューダスに話していないはずだ。コスモスフィアに居るジューダスは、ある程度ダイブやコスモスフィアのことについて理解しているのかもしれない。

「僕がお前を受け入れた証でもあり、僕がこの世界を受け入れた証でもある」

おずおずとジューダスへ視線を向ける。現実世界のいつものジューダスだ。どこか影を背負いながらも、凛として立ち何かを見据えていた。そんな姿に、無性に悲しみを覚えた。

「お前のおかげだな」

「おかげって……」

ジューダスは再び薄っすらと笑って見せた。そして躊躇い無くその光へと歩みを進めようとする。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

俺はジューダスの腕を掴んだ。

「こんなの、……大丈夫なのか? お前を待ってくれていた人ってのは!? 俺は……」

「ロニ、……僕は、全てを失くしている」

ジューダスは静かにそう言った。悲しみを帯びた目が揺れることなく俺を見る。

「失くしたものに、執着してしまっていただけなんだ。お前は僕に現実を見せてくれた。それだけだ。それは、良いことなんだ」

そう、なのか? いや、でも……確かに、過去にいつまでも縛られるのは良くないことだ。だが、だからといって、こんな綺麗さっぱり消し去っていいものなのか? 大切な思い出とかあるんじゃないのか。

「でも、よ」

「ロニ、あそこを」

突如ジューダスは俺の後ろ、インがあった方へと指を指す。その先にはもう鎖しか見えない。

「見えるか?」

だがジューダスはただ鎖を指差しているようではなかった。再度目を凝らしてみる。やがて鎖の隙間から、僅かに何かが見えた。鎖の隙間から見えるものを脳内でつなぎ合わせてみる。……町?

「インか?」

「そうだ」

鎖に阻まれるように、奥のほうに消えたはずのインの世界が浮き島のように漂っているのが見えた。俺は胸を撫で下ろした。よかった、無くなったわけじゃなかったのか。

「別に、全部消してしまったわけじゃない。触れることも、戻ることもできないが、ちゃんと心の片隅にはある。それだけで、いいんだ」

遠くにあるインの世界を愛おしそうに眺めてから、ジューダスは再びパラダイムシフトの光へと体を向けた。もう力の入っていない俺の手はジューダスが歩みを進めるのにあわせて自然と解かれる。

そして、一人、ジューダスは光の中へと入っていった。ジューダスを飲み込んで光は大きく膨らみ、やがて世界をも飲み込む大きな光となった。視界が真っ白に塗りつぶされる。

 

 

 

 

 

「お疲れ様」

「……あぁ」

心の護から声がかけられる。三回目ともなれば慣れたものだ。今回はパラダイムシフトだと認識することもできたからな。また俺はコスモスフィアと現実世界の狭間とやらに着いたようだ。

「浮かない顔だね。今回はわかりやすいパラダイムシフトだったじゃない」

「適当なこと言ってんじゃねぇよ……あんだけ意味わからねぇことが沢山あったんだぞ……説明してくれよ。まず、あのクレスタは一体なんだったんだ」

「今回は……ちょっと不安定な世界だったね」

「ちょっとどころじゃねぇぞ……」

インの世界と大切な人というのは、ジューダスが失ってしまった過去の居場所と見ていいのだろうか。ジューダス本人がそう言っていたのだから、いいんだよな。だとしたら、帰りたがっていたのは本当に、過去への執着だったのかもしれない。だが、それを突如断ち切ることになったのは……何がきっかけだったんだろう。俺はあいつをその過去へと戻そうとしていたんだ。むしろ過去を引きずる手助けをしていたようなものだったのに。

本当にあれが過去への執着だったのなら、寄り添い慰めたり、今の居場所に目を向けさせたりといったことが……あ、一応それは最初の方に出来ていたのか? だからか? うーん……なんか納得がいかねぇ。

しかし、最大の謎はクレスタだ。心の護には質問をはぐらかされてしまった。本当に、あれは一体なんだったのだろうか。帰りたい気持ちが強かったから、今の居場所を否定したのだろうか? でも何で町がクレスタに変わった?

あと、一番気になっているのが……スタンさんとルーティさんだ。

「なぁ……」

「まぁ、君はあの不安定な世界を安定させたんだよ。良かったじゃない」

聞きたいことがたくさんある。だというのに、相変わらず心の護はなんら俺に答えてくれる気はないようだ。俺はため息混じりに「……そう、か?」と答えた。

「それじゃ、現実世界に戻すよ」

心の護はそれだけ言うと、また俺の返答を聞きもしないで俺を現実世界へと戻した。

 

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